今回は栗原さん
栗原 裕一郎(くりはら・ゆういちろう)
栗原さん
評論家。少し時間ができそうなので、頓挫しているいくつかの仕事の続きを頑張りたいと思います。
東京に出てくるとき、私は刺激が欲しいと思っていた

 <1>雨宮まみ『東京を生きる』(大和書房・1,512円)は、九州出身で三十代独身女性である著者が、現在はその場所の住人である東京について綴(つづ)った私小説的なエッセー集である。

 この本を貫いているのは、埋まることのない「空虚な穴」だ。東京にはその穴を埋めてくれる「刺激」があるはずだとかつて彼女は夢想していたが、東京はそんな万能薬みたいな刺激を与えてくれはしなかった。東京で生きるとは、その穴はついに埋まらないのだと確認することだと悟ったあとも、彼女は、分不相応に思える洋服や食事などを消費することをやめない。底が見えない穴の深さを測ろうとするような行為であると承知しながら、やめない。刹那的であろうと、欲望を肯定し溺(おぼ)れることが「東京“を”生きる」ことなのだと見切ったからだ。東京を目的語に従属させたタイトルに、その覚悟は現れている。 でも雨宮の東京は、どこか架空の場所めいている。山内マリコは<2>『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫・583円)で、地方で生きる女性たちを軽妙に描き出してみせた。東京へ出れば新しい人生が拓(ひら)けるなんて幻想でしかない-そんな認識が前提にあるこの小説は、雨宮の東京とは対照的だ。

 東京郊外(サバービア)の空虚さは洒脱(しゃだつ)なニュアンスを帯びているためよく題材にされてきたけれど、地方が現在直面する空虚さというのはあまり描かれてこなかった。身も蓋(ふた)もなさ過ぎるからだろう。山内のこの小説はそんな身も蓋もない現実に向き合った稀有(けう)な成功例であり、誰もが感じていながらうまく言い表せずにいた時代の空気をえぐり出した点で、たとえるなら田中康夫の『なんとなく、クリスタル』に似たインパクトがあった。 だが、田中の東京に似ているのは雨宮のほうだ。最近復刻された<3>『たまらなく、アーベイン』(河出書房新社・2,808円)は、1984年に田中が上梓した、アダルト・オリエンテッド・ロック(AOR)のディスクガイドという体裁で都市生活の断片を百、切り取った奇妙なエッセー集である。田中は、AORという中身がないとされた音楽に執着することで、高度消費社会下の東京の空虚さに駄目を押そうとしたのだ。「空っぽだよ、たしかにね。でも、それのどこがいけないんだい」と。


 三十数年後に読む田中の東京は、それが当時は批評的とも評された所以(ゆえん)だろうが、即物的でいながら空想的だ。雨宮の東京は、田中の東京の子孫である。ただし空虚さの内実は、三十数年分、確実に変化している。

『東京を生きる』
『東京を生きる』
雨宮まみ
(大和書房・1,512円)
『ここは退屈迎えに来て』
『ここは退屈迎えに来て』
山内マリコ
(幻冬舎文庫・583円)
『たまらなく、アーベイン』
『たまらなく、アーベイン』
田中康夫
(河出書房新社・2,808円)