今回は坂井さん
坂井修一(さかい・しゅういち)
坂井さん
歌人・東大教授。3月5日は森鴎外記念館で「観潮楼歌会」に参加します。
音楽に感じる人の匂い

 恋愛に音楽はつきもの。いやいや、そんな俗な言いかたではいけない。恋愛と音楽は根を同じくするものであり、命の源泉である。そう言わなければ!

 というわけで、今回は音楽(楽器)の登場する作品を三冊。冬ももうすぐ終わりだが、まだまだ夜は長い。ぜひ堪能してほしい。 

 <1>小川洋子『やさしい訴え』(文春文庫・637円)。チェンバロ作りの師弟と主人公のカリグラファー(文字デザイナー)が織りなす物語。三人とも実世界で致命的な傷を負い、避暑地の高原でこれを癒やしあう。いわゆる三角関係の物語なのだが、いちばん深い関係は、性愛によっては築かれない。チェンバロという楽器、そしてその奏でる音楽と一体化した絆が最強だったのだ。ヒトの心と体を描いて残酷な美しさをまとう傑作。私の好みかもしれないが、同じ作者なら『博士の愛した数式』よりもこちらをお勧めしたい。

 <2>大和和紀(やまとわき)『薔薇子爵(ばらししゃく)』(講談社漫画文庫・734円)所収の「翼ある者」。これも傷を負った男女の物語。若手指揮者の深尾海里は、ピアニストの母への愛憎のため、音楽に対して素直な気持ちをもつことができない。しかし、偶然に出会った宮村流花によって、心が開かれ、本物の音楽を手に入れる。


 大和和紀の漫画はリアルタイムで読んできた。『はいからさんが通る』の開放感。『あさきゆめみし』の深み。『にしむく士(さむらい)』の大人をくすぐる楽しみ。どれも捨てがたいが「翼ある者」の純粋な美しさは、格別のものだ。

 <3>マルグリット・デュラス『モデラート・カンタービレ』(田中倫郎訳、河出文庫・583円)。上流婦人のアンヌが、子供のピアノ教室の近くで目撃した情痴殺人。これをきっかけに、彼女はカフェで労働者の青年ショーヴァンと知り合い、事件についてあれこれ語り合ううち、危険な思いの虜(とりこ)になっていく。

 昨今のテレビドラマのようなことは起こらない。けれど、主人公の心にはずっと深い傷が残る。「モデラート・カンタービレ」の意味を子供に問い続けるピアノ教師への反感。偽善に満ちたブルジョア社会への嫌悪。そして自殺願望。単なる恋愛劇ではない。彼女は、自分がいったい何であるかを、ここではじめて知るのだ。

 クラシック音楽のコード進行は、とても緻密で論理的に見えるし、複雑な美しさを示している。一方でそれは、<ヒトの匂い>をたてて私たちの本性をあばきたてもする。

『やさしい訴え』
『やさしい訴え』
小川洋子
(文春文庫・637円)
薔薇子爵(ばらししゃく)
『薔薇子爵(ばらししゃく)』
大和和紀(やまとわき)
(講談社漫画文庫・734円)
『モデラート・カンタービレ』
『モデラート・カンタービレ』
マルグリット・デュラス
(田中倫郎訳、河出文庫・583円)