よれよれの中年男になったせいか。「純粋」だの、「善」だのを志向するならまだしも、本当に「純粋」「善」なるものと遭遇すると、うんざりする。「あんた、大丈夫か?」と。それでも某(それがし)、瞳の美しかりし若き頃もあり、真・善・美を求め、狂うに狂うたが、一歩間違えれば、理由なき殺人者にもなり、文法なき原理主義者になってもおかしくなかっただろう。逆説的にいえば、純粋や善はとてつもない悪に直結する危険性があるともいえる。いや、もうそのエネルギーがないゆえの愚痴か…。
「ぼくもまた十五にして稚心を去ることを念願とした。そして、さらに二十代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来た」
徹底的に悪を考え、掴(つか)み、手放さなかった宗教家を描いたのが<2>三田誠広『親鸞』(作品社・2,808円)。重厚なる大長編にもかかわらず、一気読みの面白さ。源頼朝の甥(おい)といわれる親鸞を描いた作品は多いが、かように末法の世の人間曼荼羅(まんだら)を迫真の筆致で描き尽くした小説を知らぬ。後白河院が、法然が、頼朝が、熊谷直実が…多くの人物が見事なまでにからみ、宗教、政治、時代全体が浮かび上がってくる。煩悩具足の悪人に極楽浄土を約束するため、「自分は言葉を語るしかない。それが無明の闇にさまようことになろうとも、自分は言葉の闇の中に踏み込むしかないのだ」と、無量の言葉を求め続けた仏教の革命児のドラマがここに。
「物を考えるとは、物を掴(つか)んだら離さぬということだ」といった<3>小林秀雄『考えるヒント』(文春文庫・616円)も、全編これ大人(知的悪人?)になるためのレッスン。中秋の名月に見入る日本人の心性を書いた「お月見」一つにしても、滋味渋味。「文化という生物」が生き、育っていく深い理由を問いながら、「年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬこととも思われる」とも。純粋や善だけではとらえられぬ、文化と人間の深淵(しんえん)を学ぶ。