今回は坂井さん
坂井修一(さかい・しゅういち) 
酒井さん
歌人・東大教授。大切なのは、つじつま合わせのノウハウではなく、自分の言葉で社会や人生を語ること。それができない大人が増えている。
生きるための知恵

 人生を決めた本。そんな大それたものが私にもある。それも、とても不思議な形で。<1>リルケ『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』(高安国世訳、新潮文庫・376円)所収の「若き詩人への手紙」。詩を志す若者へリルケの送った手紙を収録したもの。本物の文芸家にとって、人生が何であり、俗世間が何であるかを深く語ってくれる。私の場合、この本を読んで詩歌に志したとすればかっこいいのだが、現実はその逆。

 巻末「解説」の中で、訳者の高安国世が「若き詩人」のなれの果てを報告している。それによるとこの人は、「ベルリンの絵入週刊新聞に、みじめな大衆小説を書いてい」たとのこと。リルケが見込んだ人ですらそうなのだから、自分は詩歌など志すのはやめたほうがいい。そんなふうに考えて、十六歳の私は理科系に進むことにした。

 <2>シェイクスピア『リア王』(福田恆存訳、新潮文庫・497円)。人間の果てしない欲望、肉親の裏切り、良心ある者のみじめな敗北と死。まさに極め付きの悲劇だが、高校生の昔も、還暦が近づいた今も、私に最大の警句を発し続けてくれている本がこれ。世界とは何か。人生とは何か。これほどみごとに語ってくれた本は希有(けう)だ。

 名言も目白押しだ。


「私の愛情は私の舌より重いのだもの」「生れ落ちるや、誰(だれ)も大声挙げて泣叫ぶ、阿呆(あほう)ばかりの大きな舞台に突出されたのが悲しゅうてな」「おお、必要を言うな!如何に賤(いや)しい乞食(こじき)でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計な物を持っている」

 人の心は、ロンドン塔の拷問部屋より深い闇の中。二十一世紀になっても、決して進歩などしていない。

 <3>洪自誠(こうじせい)『菜根譚(さいこんたん)』(今井宇三郎訳注、岩波文庫・972円)。才人が世俗の名利に殺されるのは、時と所を問わずに起こること。どの世界の人でも、一つや二つは身近に見たことがあるだろう。名利を得るべきかどうか迷ったら、たいがいは遠慮したほうがいい。これは、謙遜というよりは生きるための知恵だ。

 世俗のことがらの是非をどこで線引きするべきか。『菜根譚』は、そんな問いに対して、ヒントを与えてくれる本だ。私の場合、迷いのあるときは、この本と『荘子』を読み比べたりする。コンピューターの研究者としては、ちょっと変わった性癖かもしれないが、私のような凡人がどうにかこうにか生きてこられたのは、こうした読書のおかげだったと思っている。

若き詩人への手紙・若き女性への手紙
『若き詩人への手紙・若き女性への手紙』
高安国世訳
(新潮文庫・376円)
マラス-暴力に支配される少年たち
『リア王』
福田恆存訳
(新潮文庫・497円)
絶滅の地球誌
『菜根譚(さいこんたん)』
今井宇三郎訳注
(岩波文庫・972円)