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3冊の本棚

文章のプロが毎回テーマに沿って、3冊の本をセレクト。
作家という書き手の視線で選ばれた本の魅力をご紹介いたします。

栗原 裕一郎さん
(くりはら・ゆういちろう)

評論家。監修した共著『村上春樹を音楽で読み解く』が韓国で翻訳出版されることになりました。
栗原 裕一郎

ディストピアの予感

 トランプ大統領就任後、ジョージ・オーウェル『1984』が米アマゾンでベストセラー一位になったという記事が出た。日本でも2009年に高橋和久による新訳が出版された<1>『一九八四年』(ハヤカワepi文庫・929円)の売り上げが急増して二十万部を超えた。

 トランプ大統領就任式についてメディアが、オバマ前大統領のときよりも聴衆が少なかったと比較写真を添えて報じたところ、トランプは報道を非難、大統領報道官は過去最大の人出だったと強弁した。報道番組でこの発言を追及された大統領顧問は、あなた方はうそだと言うが、われらが大統領報道官は「代替的事実」を述べたのだと抗弁した。

 トランプをめぐっては選挙戦中から、事実よりも感情が世論形成において優先する「ポスト真実」がキーワードとなっていた。そこに「代替的事実」というキャッチーな造語が輪をかけるように飛び出したせいで『一九八四年』がばか売れしたというのが大方の読みだ。『一九八四年』には「ニュースピーク」「二重思考」という概念が登場する。歴史や事実を書き換え、虚偽を真実に塗り替えるために独裁者が民衆に強制する言語と思考形態のことだが、トランプ政権はこれらを連想させるというわけだ。

 だが見方によっては、ディストピアSFの古典として双璧をなす<2>オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(大森望訳、ハヤカワepi文庫・864円)のほうがより予言的かもしれない。『一九八四年』が権力が真実を隠蔽(いんぺい)する恐怖を描いているのとは対照的に、『すばらしい新世界』は人々が真実など必要としなくなった理想社会をディストピアとして描く。この小説では「ポスト真実」は「幸福」と同義である。

 身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。意外に思われるかもしれないが「これは戦いの小説」(苅部直の解説より)であり、ディストピアを予感する小説である。主人公の薫くんが学生運動という傀儡(かいらい)を通して戦っているのは、「知性」を駆逐する「感性」という敵だ。「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。
  • 『一九八四年』
    高橋和久訳
    (ハヤカワepi文庫・929円)

  • 『すばらしい新世界』
    大森望訳
    (ハヤカワepi文庫・864円)

  • 『赤頭巾ちゃん気をつけて』
    庄司薫
    (新潮文庫・497円)