加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


六の巻

「六の巻 徳川幕府最後の将軍・慶喜」

265年もの長きに渡り政権を維持した、徳川幕府の歴史に終止符を打った15代将軍・徳川慶喜。幕府の終焉が見えていたなかで将軍となった彼は、いったいどんな気持ちで大政奉還を行ったのでしょうか?
歴史講釈

徳川慶喜について教えてください

慶喜はどんな将軍だったのでしょう?

 



徳川家や自分が、後世からどの
ように評価されるか、を何より
も気にした人物といえます。


享保日本図 将軍上洛時の居館として建設された二条城。慶喜が将軍の任命を受けたのも、大政奉還を行ったのもこの城で、実は彼は江戸城にはほとんど足を踏み入れていない。

 15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、一言でいえば“歴史主義者”だったといえるでしょう。
「後世、自分と徳川家は、どう評価されるか――」
それだけを考え、行動したところにこそ、この将軍の真骨頂があったように思われます。

 慶喜は御三家の一(いつ)で、俗に“天下の副将軍”と称されていた水戸徳川家に、藩主・斉昭(なりあき)=“烈公(れっこう)”の七男として生まれました。水戸家は2代藩主の光圀(みつくに)以来、『大日本史』の編纂という事業に打ち込んでおり、ここから派生した、京都の朝廷を尊崇し、幕府=武家政権を賤(いや)しむという思想――いわゆる“水戸学”に、慶喜はどっぷり漬かって育ちました。水戸学は、幕末の「内憂外患」の中、いつしか尊皇攘夷運動の精神的支柱となっていきます。

 慶喜の父・斉昭は、水戸学のいわば象徴であり、この父に「みどころがある」と期待された慶喜は、幼少時代から徹底したスパルタ教育を受けて育ちました。
 慶喜は将軍家の家族ともいうべき、御三卿の一・一橋家の養子から当主となり、将軍後見職へ就任します。
 その間、禁門の変から、第一次長州征伐。長州に勝利した幕府は、調子にのり慶応2(1866)年6月に、第二次長州征伐へ踏み切りましたが、戦局は予想に反し、幕府方の惨敗。その最中、14代将軍の家茂(いえもち)が7月に大坂城で病没してしまいます(享年21)。
 後任将軍に推された慶喜は、形ばかりの休戦のための勅命降下を工作し、終戦にこぎつけると、12月に入って15代将軍に就任しました。彼こそが、江戸幕府最後の将軍となったわけです。



加来耕三の東京歴史探訪

 
 キーマンはこの人。

「徳川慶喜」

1837年~1913年
江戸幕府15代将軍。江戸幕府最後の将軍となった。一橋徳川家の、9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めたのちに、徳川宗家を相続して、将軍位を受ける。大政奉還や戊辰戦争の中心人物となり、鳥羽・伏見敗戦後は新政府軍に恭順。江戸開城を行い、静岡にて隠居した。明治35(1902)年には従一位勲一等公爵、貴族院議員となるも、政治の表舞台には決して立たなかった。

徳川吉宗
寛永寺
慶喜は、華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため、自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残した。そのため、お寺ではなく谷中霊園に墓所がある。

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江戸無血開城への道

幕末の「江戸無血開城」は
どのように導かれたのでしょう?


慶喜の恭順と、
勝海舟らの奮闘によって
成功しました




大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画)。このあと江戸湾に入り、濱御殿から上陸した。

 慶応4(1868)年正月3日、鳥羽・伏見の戦いに、旧幕府軍は予想だにしない大敗を喫しました。劣勢のところへ、敵方に錦の御旗があがり、朝敵にされてしまったのです。総大将の15代将軍・徳川慶喜は、6日の夜、密かに江戸へ向けて大坂城を脱出しました。濱御殿(のちの浜離宮)に入ったのは12日早朝のこと。
 急ぎ慶喜は、今後の善後策を講ずるべく、主だった者を集合させます。急報に接した旧幕臣の勝海舟は12日の夜明け前、馬を駆って濱御殿に駆けつけます。しかし、海舟がそこで見たものは、青ざめた顔で沈黙する、旧幕府の重臣たちの姿でした。
『海舟日記』(勝部眞長編)には、
「はじめて伏見の顚末(てんまつ)を聞く。会津侯(会津藩主・松平容保)、桑名侯(桑名藩主・松平定敬)ともに御供中にあり。その詳細を問わむとすれども、諸官唯(ただ)、青色。互(たがい)に目を以ってし、敢えて口を開く者無し。板倉閣老(板倉勝静)へ附(つ)いて、その荒増(あらまし)を聞くことを得たり」とあります。
 海舟は、彼らのありさまをみると、その失敗を責めて、大いにののしったのだそうです。
「アナタ方、何という事だ。これだから私が言わない事じゃない。モウ斯(こ)うなってはどうなさる積りだ」(同上)
 海舟の言葉は重臣たちに向けられていましたが、おそらく心中は、前将軍慶喜に直接向けての、怒りだったのでしょう。けれども慶喜は、あくまで歴史主義者でした。こののち、徳川家と自分がどのように評価されていくか、それのみを考えていたのです。
 江戸での慶喜を苦悩させたのは、新政府軍の江戸進軍でした。しかし、これも慶喜は旧幕臣の勝海舟に後事を委(ゆだ)ねると、4月11日、江戸を去って水戸に謹慎し、朝廷に恭順の意を表する挙に出て、回避に努めます。

――ここに、鎌倉幕府からつづいた武家政治は、完全に終わりを告げ、徳川幕府は名実ともに瓦解することとなりました。
 慶喜が水戸にあった閏(うるう)4月29日、新政府は徳川宗家を田安亀之助(たやすかめのすけ)=のちの家達(いえさと)に相続させる旨を通告してきます。隠居した慶喜は、このとき32歳。水戸藩の藩校・弘道館で謹慎生活を送っていた彼が、徳川家の移封先とされていた駿府(現・静岡県静岡市)に移ったのは、7月23日のことでした。
 明治30(1897)年11月、慶喜はいまや新都となった東京(=旧江戸)へ帰ってきます。戊辰戦争からすでに、30年の歳月が流れていました。慶喜が江戸城とかつて呼んだ皇居に参内し、天皇に会ったのは翌31年3月2日。明治35年6月、公爵を授けられて貴族院議員となり、41年に勲一等に叙せられると、2年後に、家督を七男・慶久(よしひさ)に譲っています。
 謹慎免除後の平和な45年を、恭順一筋に生きたこの不思議な人物=慶喜は、大正2(1913)年11月22日、77歳をもって、その生涯を閉じました。
 その果した役割の正否はさておき、歴史へのこれほどのこだわりを、生涯賭けて示した人物も、稀であったといえるでしょう。

それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。
歴代将軍の別邸として使用されてきた「濱御殿」は、明治以降は皇族の「離宮」として活用されていた、絶景を誇る庭園です。今回は、その歴史ある庭園を巡ってみましょう。

史跡探訪編

加来耕三の東京歴史探訪

歴代将軍や皇族の別邸として愛された、浜の「庭園」
紀尾井坂
東京都中央区にある「浜離宮恩賜庭園」は、東京湾から海水を取り入れ潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入り(しおいり)の回遊式築山泉水庭です。江戸時代に甲府藩下屋敷の庭園として造成され、園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑、ボタン園などを有しています。徳川歴代将軍家の別邸「濱御殿」や、宮内省管理の「離宮」を経て、東京都に下賜され都立公園として開園しました。

開園時間 9:00~17:00(入園は16:30まで)
休園日  年末・年始
入園料  一般/300円、65歳以上/150円
  (小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料)

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浜離宮恩賜庭園
今回の史跡巡りは「赤坂見附跡」からスタート。見附の枡形をした壁の一部が残っています。鴨を集める仕掛けを覗くための小屋。鴨場の周辺には、こういったものが四方八方に整備されています。
弁慶橋の袂には、外堀で釣りを楽しめるフィッシングエリアも。ボートの貸し出しもしています。鴨場を覗く先生と清水さん。鴨が寄って来たら右手側にある板を木槌で叩いて合図をしたのだとか。
明治に入ってから架けられた弁慶橋から望む「赤坂見附」。江戸城の外堀には、見張りを行うための「見附」が36ヵ所配置されていました。 浜離宮の代名詞でもある「潮入の池」に架けられた「お伝い橋」からの一枚。池に浮かぶ「中島のお茶屋」へと続いており、まるで池の上を歩いているような錯覚を起こすほどの絶景が楽しめる。


潮の香りを運ぶ海風と静寂に包まれて、 古き良き“日本の趣き”を体験できる庭園


 東京都は中央区にある築地市場のすぐ隣。築地と汐留の間に位置する「浜離宮恩賜庭園」は、もともと甲府藩下屋敷の庭園として造られたものを、六代将軍・家宣が自身の別邸として改修した「濱御殿」を前身とします。明治以降は皇族の離れとして活用され、今の「浜離宮」という名前となりました。現在は東京都の公園として一般へも開放され、都心にも関わらず、古き良き日本の風景を楽しめる観光スポットとして親しまれています。
庭園の大手門入り口からすぐにある松をみて、アシスタントの清水さんが感嘆のひとこと。
「さすが有名な“三百年の松”。想像以上に立派で、圧倒されますね」
「これは家宣が“濱御殿”に改修したとき、記念に植えられたものなんですよ。その後の激動の時代をずっと見てきたのかと思うと、何だか感慨深いものがありますね」
庭園の中程へ進むと、大きな池が二つあり、一つは海水を引き入れた「潮入の池」。もう一つが「鴨場」です。
「この浜離宮は、将軍の鷹狩り場としても使用されていました。だから、獲物となる鴨を集めるための鴨場があるんです」
「たしかに、大きな池を中心に、たくさん覗き小屋がありますね。あそこから鴨が集まってくるのを覗いていたということですか」
「そうです。集まったら、横にある板を木槌で叩いて、鴨を驚かします。そうやって飛び立った鴨を、鷹が捕獲するというわけですね」
さらに進むと、東京湾に面した波止場へ突き当たります。
「あそこに見える石段。あれが“将軍お上がり場”です」と先生。
「慶喜が大坂から戻ってきたときに、上陸した場所ですか?」


紀尾井坂を登りきると、今度は「食違い見附跡」に到着。見附というだけあり、ここからの展望は「すごい!」の一言。
大坂から戻ってきた慶喜が上陸した場所。乗船してきた開陽丸を江戸湾に停泊させ、小舟に乗り換えてここまで来ました。

迎賓館の東門に使用されているのは、紀州徳川家の中屋敷で使われていたもの。明治になってここへ移設されました。瓦には本来、葵の紋が入っていたのが、現在は菊の紋になっています。
都内では唯一の海水の池のため、潮の満ち引きに合わせて水門を開閉することで、池の水の出入りを調節しています。

紀州徳川家の中屋敷があった清水谷公園には、当時の井戸の複製が。この井戸が清水谷の由来です。
大手門の入り口すぐにある「三百年の松」。6代将軍家宣が庭園を「濱御殿」として大改修した際に植えられたもので、東京都では最大級の黒松です。

紀州徳川家の中屋敷があった清水谷公園には、当時の井戸の複製が。この井戸が清水谷の由来です。
中の御門の先に設けられた馬場の跡。かなり広い範囲に渡って、広場のようになっています。


「そうです。鳥羽・伏見の戦いで予想だにしなかった大敗を喫した慶喜一行は、密かに大坂城を脱出し、江戸へと逃げてきました。」
「誰が出迎えたのしょう?」
清水さんが続けて質問を投げます。
「ここへ駆けつけられたのは、勝海舟だけです。そのときに海舟は、青ざめた顔で沈黙する旧幕府の重臣たちをどなりつけたのだとか。その後、慶喜は海舟に後の始末を命じると、江戸城にいったん入り、すぐに上野の寛永寺大慈院で謹慎に入ってしまいます」
「急遽出迎えることになった濱御殿は、大変だったでしょうね…」
「そもそも慶喜は、大坂で将軍になり、そのまま戦っていましたから、将軍として江戸にいたことはないんです。だから濱御殿の人たちも、初めて慶喜にあったんじゃないでしょうか? そのため、食事の準備なども間に合わなかったとも言われていますね」
「慶喜にとっては、なんだか苦い思い出の場所のようですね…」
「とはいえ、このときの慶喜の判断は正しかったと思います。彼があっさりと引き下がったからこそ、江戸城は無血開城されたわけですから。慶喜は、謹慎後は表立っての行動を一切せず、かつての臣下や知人とも極力連絡を控えていました。ですから、明治以降の政治に一切影響を与えていないのです。実は、これが一番評価するべきポイントだと思います。自らの手で徳川幕府の幕を下ろした。これは権力に執着する人間では、決してできないことです。慶喜は歴史家として、非常に優れていたという証だと思いますよ」

文・構成 井手窪 剛


 

現代の景色から江戸時代の景色に想いを馳せる
ほっとひと休み
オーバカナルにて撮影後の一休み。
庭園内の「潮入の池」に浮かぶ中島に建てられた御茶屋で、冷たいお抹茶と生菓子をいただく二人。
「潮風がひんやりと心地いいですね、先生」と清水さん。
「お茶といえば静岡県中部の“牧之原”という深蒸し茶の名産地があるのですが、実はここは元幕臣が開拓したんですよ。慶喜が大政奉還したあと、多くの幕臣は職を失ってしまいました。そこで新番組の隊長だった中條景昭(ちゅうじょうかげあき)が、勝海舟らのアドバイスをもとに、仲間とともに茶畑を始めたんだそうです」
休憩中だって、先生の解説はとまることを知らないのです!
オーバカナル 紀尾井町
中島の御茶屋 浜離宮恩賜庭園内
03-3541-0200
9:00-16:30 定休日:なし
季節限定の上生菓子抹茶セット 720円
蒸し菓子抹茶セット 510円

今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
歴代の徳川将軍を足早に紹介してきましたが、ひとまず将軍というテーマは今回で終了です。徳川幕府が滅亡への道を進んだ最大の要因は、家康の教えを守って米本位制を貫いてしまったこと。江戸の初期は金が豊富に採れましたが、採りつくしてしまったあとの税収が、米本位では無理がありました。黒船はあくまできっかけであり、遅かれ早かれ江戸幕府は終焉を迎えていたでしょう。退き際をわきまえていた慶喜の判断は、的確だと思いますね。
清水夏子さん
清水夏子さん
いまや時代の最先端をいく再開発地である汐留のすぐ隣に、江戸時代から変わらぬ風景が残っている。両極端な景色を楽しめるのも、史跡の魅力のひとつです。ここは築地市場も近いせいか、市場見学のあとに訪れる外国人観光客がとてもたくさんいらっしゃいます。たしかに日本文化に触れるには、とてもいい場所ですよね。庭園で散歩したあとに、築地や銀座へ足を伸ばせば、日本の今昔にまとめて触れることができますよ。