加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


七の巻

「七の巻 火付盗賊改方の“鬼平”こと長谷川宣以」

池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で有名な“鬼の平蔵”こと、長谷川平蔵とは、一体どんな人物だったのか?
激務とされる火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、任期が短いのが特徴で、非常に多くの者たちが歴任してきました。
ではなぜ、その大勢のなかから、鬼平が選ばれたのでしょう?
歴史講釈

長谷川平蔵は“鬼平”と呼ばれていない!?

長谷川平蔵とは、どんな人なのでしょう?

 



実は長谷川平蔵とは、長谷川家
当主の通称であり、一人の名前
ではありません。


 しかし“鬼平”と呼ばれた記録はなくとも、“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を、この職(ポスト)は持っていました。その職については後に解説しますが、まずは宣以について触れてみましょう。
 後の平蔵となる長谷川宣以の幼名は、銕三郎(てつさぶろう)。そのころは本所に住んでいました。小説では、実母が早くに亡くなり、父の正室と反りが合わなかったことから、長らく放蕩生活を続けたとあります。
 その頃に「本所の銕」の異名をとるほど、ゴロツキであったとされていますが、実際のところ、宣以の実母は長らく生きていましたし、宣以を大切にかわいがった正室は、宣以が5歳のときに亡くなっています。

鬼平 長谷川宣以をモデルに書かれた池波正太郎の代表作「鬼平犯科帳」は、TVドラマや映画、マンガと、幅広く映像化され、今も多くの人に愛される作品。

 そのことから、銕三郎は放蕩に耽ることもなく、常に父の傍らにあって、その役職を直に見習いつつ成長したと思われます。ただし、父が亡くなってからの1年間ほどは、本当に放浪していたという記録があります。厳格な父をふいに失い、重石がとれたのか、あるいはその悲しみからか、遊女やその情婦、無宿者と交わり、強請り、騙りや賭博の類に身を投じて、庶民の生活や暗黒街の仕組みを実地に体験したことはあったようです。
 しかし、彼は朱に染まらず、翌年には悪友ともきっぱり決別して「御番入り」を果たし、以降は幕臣の本分に邁進しました。ここから、宣以はトントン拍子に昇進し、ついには父よりも12歳も若く、41歳で「先手弓頭」を就任することになります。
 その後、火付盗賊改方として、長らく活躍したのは小説にあるとおりですが、実はここに彼の悲劇が隠されたのです。




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 キーマンはこの人。

「長谷川宣以」

1745年〜1795年
400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれた。幼名は銕三郎(てつ さぶろう)。家督相続後は父・長谷川宣雄と同じく平蔵(へいぞう)を通称 とした。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めたことで知られる。

戒行寺
戒行寺の長谷川平蔵宣以供養之碑

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出世コースから外された平蔵の無念?!

火付盗賊改方とは、
いったいどんな役職なのでしょう?


今で言うところの刑事事件のみを
扱う警視総監のような役職です。
石川島が記された当時の地図。江戸の町中には、まだまだ多くの川が流れていて、「渡し」は欠かせない存在でした。

 江戸の街において、火付けと盗みは、とても処罰の重い罪状です。特に火付けは、「八百屋お七」の話しのとおり、非常に厳しい処罰が与えられます。というのも、木造家屋が密集する江戸では、一度火事を起こすと、あっというまに近隣に燃え移ってしまい、街中が炎上してしまう可能性が高いためです。では、なぜ盗賊と火付けが同じ役職になったのか? それは、大規模な盗賊たちは、盗みと同時に、火をつけて逃れることが多かったからです。そのため、火盗改(かとうあらため)として統一されました。
 この火盗改という職は、今で言う刑事事件を扱うため、全てにおいて非常に荒っぽいやり方であったといいます。また、その激務から、多くは2年間ほどで他の奉行所へ栄転する、いわば通過点的な役職でもありました。しかし、宣以は死の直前まで8年間もの長きに渡って在職しています。これにはやはり理由がありました。
 ひとつは、宣以が火盗改として、非常に優秀であったこと。
 彼は在任期間中に、「神稲小僧」こと真刀(神道)徳次郎や、大松五郎(葵小憎)といった名のある巨賊を次々と捕え、非常に多くの手柄を立てました。通常は、その荒っぽいやり方から、町民からも嫌われることが多い火盗改のなかで、宣以は絶大な支持を受けていたとも言われています。しかし、彼のこの多くの手柄は、あまり表沙汰にできない手法によるところが大きかったのです。実はこれがもう一つの理由となります。彼は前述のとおり、放蕩時代に暗黒街と繋がりがあったため、その伝手を最大限利用していたのです。
 元犯罪者を更生させて、自身の密偵として使用していました。いわゆる「目明し」「岡引」といわれる存在です。
 さらに、彼らを買収するための資金を、銭相場で稼ぎだしていたのです。経費削減を求められたなかでの苦肉の策とはいえ、公費の使い方としては、表立って認められるものではありません。
 奇しくも時の老中は、田沼意次が失脚し、松平定信に変わったばかり。小説では、宣以と定信は強い信頼関係でつながれていますが、現実的な見方をすると、ワイロを嫌った松平定信にすれば、宣以のやり方は気に入らなかったに違いありません。さらに前任・田沼意次の補佐役として認識していたでしょうから、その扱いは「使い捨ての駒」同然だったのです。
 前述のとおり、宣以の父である宣雄も、火盗改として目黒行人坂の大火災で大活躍し、奉行へ栄転した後も、他の奉行所が3〜4件の懸案を処理する間に20件もの事件を裁いたというほど優秀な人だったといいます。その父の遺徳も手伝い、宣以は親子二代に渡って田沼意次の寵愛を受けていたと思われます。
 つまり宣以は、田沼意次のおかけで出世コースを突き進み、田沼意次が失脚したせいで、火盗改止まりとなってしまったとも言えます。とはいえ、火盗改としての成果を見返してみれば、その配役は間違えていなかったとも思えます。
 市井からの人気もあり、無理難題も解決してきた長谷川宣以は、理想の火付盗賊改方役といえるでしょう。まさに適材適所ともいえる采配だったのかも知れませんね。
それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。
時の老中・松平定信に命により、長谷川宣以が作り上げた「石川島人足寄場」。宣以の功績を語るうえで、はずすことのできない史跡です。今回は、直接の史跡は残っていないものの、当時の石川島を振り返ることができる、佃島の町並みを紹介します。

史跡探訪編

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時代ごとに変貌を遂げた町、石川島
石川島・佃島灯台 佃島の公園内にある石川島・佃島灯台のレプリカ。公園内ということで、公衆トイレも兼ねた観光用の施設です。
江戸時代より昔、現在の佃島の周辺には、鎧島や森島などと呼ばれる無人島や干潟が点在していました。これらを埋め立てて作られたのが、佃島と石川島です。石川島は、もともと幕府船頭頭の石川氏が築いて屋敷としたのが始まりと言われています。後に、この石川島と佃島の間に、「石川島人足寄場」が建設されました。当時は罪人が住む石川島と、漁師が住む佃島は、当然ながら離れており、橋もかけられていませんでした。現在は、石川島の敷地もふくめて佃島に統合されています。

(株)IHIの石川島資料館では、島の歴史を詳しく解説しているので、ぜひ訪れてみてください。

東京都中央区佃1-11-8ピアウエストスクエア 1F
電話:03-5548-2751
開館日:毎週水曜日・土曜日
    10:00~12:00 13:00~17:00

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旧石川島(現佃島)
キレイに舗装された川沿いを散歩。かつての人足寄場の面影はいっさい見られません。キレイに舗装された川沿いを散歩。かつての人足寄場の面影はあまり見あたりません。

石川島資料館にて、石川島の歴史に触れる二人。造船の島としての歴史も長い石川島。石川島資料館で、石川島の歴史に触れる二人。造船の島としての歴史も長い石川島。

佃島と新川をつなぐ中央大橋から、かつての石川島を望む。ここから先は隅田川というより東京湾なのので、こちら側の突きあたりに位置します 佃島と新川をつなぐ中央大橋から、かつての石川島を望む。ここから先は隅田川というより東京湾なのので、こちら側の突きあたりに位置します



軽犯罪を犯した罪人を更生させる施設として作られた石川島人足寄場!



 火付盗賊改方と並んで、長谷川宣以の大好きな功績は、町の犯罪者を減らすために、軽犯罪で処理された罪人を更生させる人足寄場を、石川島に作ったことでしょう。
 この人足寄場は、手に職を付けさせる職業訓練場であり、犯罪者といえど、賃金が支払われます。島を出てから、職に就くまでの生活費を蓄えることができたのです。 それによって、再犯を未然に防ぐことにつながったといえます。
 これほどの規模で行う公共事業は、当然ながら莫大な資金が必要となります。しかし、幕府は経費をケチる一方でしたから、宣以は相場に手を染めるしかなかったのでしょう。そんな宣以を、松平定信は冷ややかに眺めていたのでしょうか。しかし、この厚生施設としての役割は効果も非常に大きく、同時代の世界で見ても、類をみない施設だったといえます。そんな石川島の今を巡る、史跡探訪スタートです。
「石川島と聞くと“石川島播磨重工”のイメージが強いですね」とはアシスタントの清水さん。
清水さんの指摘の通り、始めに足を運んだのは、現在は社名を変更しI H Iとなった石川島播磨重工業の“石川島資料館”です。
「幕末のころから、この石川島は造船の島として栄えた歴史があるんです」と加来先生の解説もスタート。
 「やっぱり黒船に対抗するためでしょうか?」
「そうです、最悪、東京湾で迎え討つ準備を進める必要があるということで、幕府が水戸藩に造船所を作らせたのが始まりです。実際は、技術的に全然間に合わなかったのですが…」
「明治以降は、飛躍的に近代化しましたよね」
「平野富二に渋沢栄一、土光敏夫といった偉人が、それぞれの時代のターニングポイントで登場しているのが面白い点です。彼らがいたからこそ、日本の重工業は世界に誇れるレベルに達したといえるでしょうね」
 ここ石川島資料館では、石川島の歴史や、隣の佃島もあわせた、当時の人々の暮らしについても展示されています。そこで、取材班は佃島周辺も探索することに。実は現在、石川島という住所は存在していません。島の間を埋め立てて、全てを含めて佃島に統合されているからです。しかし、その名残は公園の名前として残っていたり、当時の灯台を模したレプリカが作られるなど、随所にみることができます。
「このあたりは、バブル時代にリバーサイド計画と呼ばれた、川沿い再開発で着手されたエリアですね」とは都心在住の清水さん。
「川沿いは綺麗に舗装されているのに、ちょっとなかに入ると大阪の下町にも似た雑多な雰囲気が、個人的には落ち着きます。近代的な高層ビルとの対比ができる景色は、ここならではかも知れないですね」
最後は、おみやげに佃煮を購入して、取材終了となりました。

文・構成 編集部




隅田川を挟んで、佃島と対岸の明石町を渡るための「渡し船」が発着した場所。
隅田川を挟んで、佃島と対岸の明石町を渡るための「渡し船」が発着した場所。

佃島と石川島の堺であった川。ここの川底には、住吉神社 の大幟(おおのぼり)の柱が埋められていて、3年に一度の本祭り時に掘り起こされます。
佃島と石川島の境であった川。ここの川底には、住吉神社 の大幟(おおのぼり)の柱が埋められていて、3年に一度の本祭り時に掘り起こされます。

佃島の過去と今を比較できる景色。江戸情緒溢れる下町に、近代的な高層ビルが並ぶのは、ここならでは。
佃島の過去と今を比較できる景色。江戸情緒溢れる下町に、近代的な高層ビルが並ぶのは、ここならでは。

佃島といえば佃煮。年季の入った老舗の看板や店舗には、風情があり、町の雰囲気を創りだしています。
佃島といえば佃煮。年季の入った老舗の看板や店舗には、風情があり、町の雰囲気を創りだしています。


ほっとひと休み

東京にある大坂?!佃島の秘密に迫る!


 もともと佃島とは、大坂から移住した漁師が築いた島です。本能寺の変の混乱でピンチにおらいった、徳川家康を助けた大坂の佃村の漁師たちを、家康が江戸に呼び寄せ、感謝の意を込めて、税金の免除と、全国どこの川でも海でも漁をする許可を与えました。その漁師たちが移り住んだ埋立地を、彼らの故郷の名から佃島と名付けたのが始まりです。
 そのため、大坂にある住吉大社から分霊された、住吉神社が建立されています。ちなみに陶製の扇額にみえる「住吉神社」の文字は、有栖川宮幟仁親王の筆によるものです。

東京にある大坂?!佃島の秘密に迫る!



今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
 今回から、将軍ではなく、江戸時代の偉人や事件についてご紹介していきます。初回は誰もが知っている“鬼平”こと長谷川宣以を扱いましたが、みなさんが思っていた人物像と、重なりましたか? 現代でも名が知られている偉人の多くは、何かしらの作品の主人公となっています。当然ながら、作品では少なからず脚色された部分がありますので、本当の人物像は描かれていません。そんな偉人たちの本当の姿を、これからご紹介しますので、お楽しみに。。
清水夏子さん
清水夏子さん
 人足寄場から造船の島となり、いまはリバーサイドシティと呼ばれる、きれいな住宅地。時代ごとにその姿を変え続ける石川島の今に触れてきました。
 川沿いというよりも、海沿いともいえる場所なため、気持ちのいい潮風を浴びることができて、散歩には最適な場所だと思います。すぐ近くはもんじゃで有名な月島ですし、隅田川を渡れば築地や銀座も徒歩圏内。ぜひ、みなさんも訪れてみてください。