加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで、日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


八の巻

江戸無血開城を成し遂げた勝海舟

幕末の難事を捌(さば)ききった辣腕のイメージが強い勝 海舟。彼は波瀾万丈な人生のなかで、いくつもの修羅場を乗り越えてきました。
浮き沈みを幾度も繰り返しながら、決して腐らずに機会をうかがった不断の努力こそが、彼を成功へと導いたのです。
歴史講釈

「幕末の三舟」のなかで 抜群の知名度を誇る維新の立役者

勝海舟とは、
どんな人なのでしょう?

 



高橋泥舟・山岡鉄舟に比べ、著名。
幕末日本の行く末を
見通す先見力をもち、
ここぞという場で
大勝負に出ることができる
豪胆な人でした



明治政府でも活躍した 明治政府でも活躍した勝は、当時の偉人のなかでも写真が多いので有名。聡明な顔つきで、女性からモテたというのも納得できます。

 混迷する時代にあって、いかに時流を読み、自らの人生を充足・発展させていくか。先を見通す力――つまり、先見力を身につけるか。

 ――この課題に、歴史上の多くの英傑たちがいどみ、答えを探してきました。
 けれども、時代を読み切り、先見力を身につけた人物は、日本史上にさほど多くは存在しません。

 その数少ない成功者の一人こそが、幕末の大立者(おおだてもの)、勝 海舟(かつ・かいしゅう)でした。
 欧米列強の植民地政策を見通して、江戸無血開城を実現することで内乱の危機を防ぎ、国の行く末を見すえて時代の采配(さいはい)を振りつづけた人物です。

 では、海舟はこの先見力を、いかにして身につけたのでしょうか。
「おれは青雲の志を踏みはずしたことがあるよ」
 晩年の海舟は、よくこういって自笑しましたが、この人物ほど、“運命の儚(はかな)さ”に、泣いた人物もめずらしかったでしょう。
 幕府の直参(じきさん)とはいえ、無役の小普請組・勝小吉(こきち)の長男に生まれた通称・麟太郎(りんたろう)(諱は義邦(よしくに)、明治後は安芳(やすよし))=海舟は、貧しい中で剣術や禅に打ち込み、何とかこの不遇から脱し、幕府の役職に就こうと、幼い頃から懸命の努力を積んでいました。
 その甲斐あってか7歳のとき、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の孫(のち12代将軍となる家慶(いえよし)の子)である初之丞のご学友に選ばれます。
 ところが、9歳のときに一度、実家へ戻った彼は、猛犬に急所を噛まれ、医者も匙(さじ)を投げるほどの大怪我を負ってしまいます。
 父の必死の看病で、どうにか快復したものの、今度は頼みの綱の初之丞が発病し、あえなくこの世を去ってしまいました。
 失意と絶望の中で、海舟は再び剣と禅をきわめるべく、必死の修行に明け暮れ、22歳で直心影流(じきしんかげりゅう)の島田虎之助より免許を受け、その師範代をつとめるまでになります。
 ところがここで、海舟の関心は蘭学――なかでも西洋流兵学に向き始めました。
 福岡藩士・永井青崖(せいがい)のもとで蘭学修行をはじめた海舟でしたが、
「異国語を学ぶ者は、神州日本を冒瀆(ぼうとく)する輩(やから)だ」
 と決めつけられ、虎之助の代稽古は次々と先方から、出入り拒否を受けていきます。
 けれども海舟は、西洋流兵学が時勢上、かならず必要とされる手ごたえを感じていました。
 剣術を徹底してやった、彼の勘といってよいかもしれません。蘭学の私塾を細々と開きながら、海舟は己れの出番を待ったのです。この時期を待つ、ということが、やがて彼を維新の英傑へとみちびいたのでした。

加来耕三の東京歴史探訪

 
 キーマンはこの人。

「勝海舟(勝安芳)」

1823年〜1899年
諱(いなみ)は、はじめ義邦(よしくに)。のち安芳(やすよし)。江戸時代末期から明治時代初期の武士(幕臣)であり、 政治家。位階勲等は贈正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と 呼ばれる。通称は麟太郎(りんたろう)。海舟は号で、佐久間象山直筆の 書、「海舟書屋(かいしゅうしょおく)」からとったもの。

勝海舟
勝が生前こよなく愛した洗足池の風景。
海舟が生前こよなく愛した洗足池の風景。
当時はここから富士山が望めた。

加来耕三の東京歴史探訪

日本国の生き残りをかけた綱渡りのかけひきを渡りきった男

勝海舟の功績を一言で表すと?


江戸無血開城を実現し、
明治になって天皇と徳川家の
和解を成立させました。
>勝が軍艦奉行時代に撮った集合写真。 海舟が軍艦奉行時代に撮った集合写真。右から3番目が海舟。中央は海軍総帥の稲葉正巳。
 ――やがて、ペリーがやって来ます。
 もし、ペリーの来航に端を発した幕末動乱期に、海舟が遭遇しなければ、彼は門閥第一主義の徳川幕府の下では、とうてい日の目をみることはなかったでしょう。
 33歳で海舟は、長崎海軍伝習所へ。ここは日本初の近代海軍の士官・下士官を養成する幕府の学校でした。
 事実上の教頭として、選抜されてきた伝習生の面倒を見、オランダ教師団とのコミュニケーションをはかり、それでなくとも忙しい海舟でしたが、彼はさらに、教師たちと会話をした内容の中から、幕府にとって有益なものを抽出(ちゅうしゅつ)し、江戸へ知らせていました。
 そうした努力もあり、遠く長崎に、本来なら忘れられてしかるべき海舟の存在は、海軍のエキスパートとして、むしろ江戸の幕閣で注目され、長崎に滞在していても、「講武所砲術教授方」のポストに就き、小十人組から大番組へと、番替えにもなっています。
 長崎海軍伝習所は一年で一期生を江戸へ帰し、江戸城の守りに就かせ、かわって二期生(地役人のグループを別に数えると三期生)を改めて送り込んできましたが、海舟はこの間、長崎を動きませんでした。
 出世のみを考えれば、江戸に還った方が得だったでしょうが、海舟は海軍の実務ことごとくを吸収し、そこから欧米列強を知ろうとしたのです。
 やがて、海軍の技術官僚として幕閣に認められた彼は、咸臨丸で渡米する機会にもめぐまれます。
 これらの経験が、海舟を幕閣の中で出世させますが、正論を堂々と吐くため、彼は以後、栄達と左遷、お役御免をくり返すことになります。
 海舟の強さは、そうした逆境から、その都度みごと返り咲き、幕府瓦解(がかい)の全権を担い、江戸無血開城を実現させたところにありました。
 さらには、明治の新政府にあって、参議兼海軍卿をつとめ、のちには伯爵となっているところにも、そのことはあらわれています。
 明治に入って、福沢諭吉が『痩我慢之説(やせがまんのせつ)』と題する一編を執筆、海舟を「変節者」と攻撃したことがありました。
 最初は無視していた海舟でしたが、福沢から返事を催促され、ついに筆を執ります。
「行蔵(こうぞう)は我に存(そん)す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候」
 海舟は福沢を単なる評論家だと断じ、自分とは歩む道が違うといい、「行蔵(こうぞう)」――すなわち人間の運命、出処進退――は、自分自身しか決することができず、他人がなんと批評しようが、それは自分とは関わりのないことだ、と言い切りました。これには福沢も、言葉を返せませんでした。
 明治31(1898)年3月2日、前将軍(15代)・徳川慶喜(よしのぶ)は明治天皇と皇后に拝謁して、ここに皇室と徳川家の和解が成立します。この演出をしたのも、海舟でした。
 この日の日記に海舟は、
「我が苦心30年、少し貫く処(ところ)あるか」
 と短く、己れの感慨を書き残しています。
 翌32年正月19日、海舟はこの世を去りました。享年は77。
 遺言によって墓は、「海舟」と、たった二文字を刻ませたのみ。
 立派な人生であった、といえるでしょう。
(年月日は旧暦、年齢は数え年)
それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。
勝海舟は江戸生まれの江戸育ちで、亡くなった場所も東京でしたので、彼にまつわる史跡を巡るのは、実はそれほどむずかしくありません。東京の下町から山の手まで、違った風景を楽しみながら、彼の生涯を追いかけてみませんか?

史跡探訪編

加来耕三の東京歴史探訪


激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!
激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!


 激動の幕末を駆け抜けた偉人たちのなかで、ひときわ人気を博している勝海舟は下町生まれの下町育ち。べらんめえ調の江戸っ子気質な勝は、義理・人情に厚く、人並み外れた洞察力と行動力が伴っていました。

 両国で生まれ、赤坂に住んで活躍した彼は、そのめまぐるしい日常から開放される景色として、洗足池から見る富士山をこよなく愛したといわれます。そのため彼のお墓は、洗足池に隣接していた別邸の裏に建てられました。
 そんな彼の生涯を垣間みることができる史跡を、巡ってみましょう。

加来耕三の東京歴史探訪


本所〜両国〜赤坂〜三田〜洗足
安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。
こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、なくなるまで住んでいた屋敷です。こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、亡くなるまで住んでいた屋敷です。
勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさん。勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさんあります。




海舟が生まれた場所から眠る場所まで。都内を弾丸ツアーで史跡巡りスタート!

 今回は、勝海舟が生まれた、現在の墨田区の区役所に建てられた銅像から、スタートです。
「思ったより像の高さが高いですね!」
 アシスタント清水さんが、銅像を見上げた第一印象。
「坂本龍馬の銅像といい、維新志士の銅像は、なぜか高いところに建てられることが多いんですよ。“先を見通す目”とか、“新しい世界の夜明け”をイメージしたのでしょうか?」とは加来先生。

 写真をとるのに苦労しつつも、なかなか楽しげな構図でパチリ。
 ここ墨田区役所から、車で10分もかからない両国に、海舟が生まれた邸宅跡の記念碑が建てられています。
次は、彼が人生のスタートを切った場所へ向かいましょう。

「勝海舟誕生の地」は、現在の両国公園のなかに記念碑が建てられています。ここ両国は、実はとても史跡が多い場所。両国駅から徒歩5分圏内に、赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良邸跡や、芥川龍之介の生誕地、囲碁の名人・本因坊秀策の生誕地など、枚挙にいとまがありません。
「下町育ちの海舟ですが、幕末の天保13(1842)年に蘭学を学ぶため、赤坂溜池の福岡藩黒田家(現・港区赤坂2丁目、衆議院宿舎あたり)のお雇い蘭赤学者・永井青崖(せいがい)のもとに通うことになります。その際、通うのに便利な坂田町(現・港区赤坂3丁目)のあばら屋に引っ越しをしたんですよ。」

 記念碑を見た後は、加来先生の説明に沿って、赤坂へ移動。

 「蘭学を学んだ海舟は幕府の役職につき、長崎に派遣されます。そこで海舟が習得したオランダ語が大いに役に立ち、築地の軍艦操練所の頭取に就任したのをきっかけに、氷川神社下の元旗本の屋敷に転居したようです。ここを居宅としている時期に、幕末の難局を乗り切り、江戸の無血開城を導きました」
 先生の解説に頷きながら、赤坂の街を探索する取材班。
「大政奉還の後、海舟は徳川慶喜とともに駿府へ移り住みますが、慶喜の謹慎がとけ、明治政府の海軍大輔に任官されると、赤坂へ戻ってきました。それが現在の、旧氷川小学校跡です」
「今は、特別養護老人ホームになっているんですね。あ、あそこに記念碑がありますよ」
 清水さんが発見した記念碑は、入り口から少し外れた、敷地の端っこにありました。どことなく、寂しげな雰囲気…。
「新政府でも活躍し続けた海舟ですが、晩年は富士山の見える景色をこよなく愛し、洗足池の付近に別邸を建てました。そのとき『富士を見ながら土に入りたい』と、存命中にお墓を準備したといいます。その風景を見に行きましょう」
「ここが、海舟の愛した風景なんですね。富士山が見えなくなってしまった今でも、なんだか哀愁を感じさせられます」とは清水さん。
 時代に名を残した海舟ですが、ここ洗足周辺での彼は、ちょっと変わったホラ吹きの老人として知られていたようです。


 加来先生曰く、「彼はとても特徴的な口調で話し、その内容もアチコチへ飛んでしまう癖があった、という記録があります。今で言う“べらんめえ調”だったらしいのですが、彼の語りを一度で全部理解できる一般人は、少なかったのでしょう。


明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷のあった場所です。
明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見した海舟が、江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」薩摩藩屋敷のあった場所です。

海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。
海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。

「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。 「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。

海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。 海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。



 彼ほど先を見通す目をもった人は、歴史上でもそれほど多くないのですが、あまりに先のことを自信満々に語られては、ホラ吹きと思われても仕方がなかったかもしれませんね」
 逸話の多い、勝海舟らしいエピソードではあります…。


文・構成 編集部 / 監修 加来耕三


 

 

ほっとひと休み

絶対、同じ墓には入れてくれるな!?
守られなかった妻の遺言…


 海舟の赤坂氷川邸は妻と子と孫と、さらに妾とその子や居候らの大所帯でした。“妾は男の甲斐性”と思われていた時代とはいえ、それを快く思う妻などいるわけありません。海舟の死後、6年で亡くなった正妻・民子は「頼むから勝のそばに埋めてくれるな、私は(息子の)小鹿(ころく)の側がいい」と遺言を残し、青山墓地に埋葬されました。
 ところが、後の子孫がお金に困ったのか、墓地を手放してしまったため、結局は海舟の墓と一緒にされてしまいます。
 死してなお、一緒にいなければならくなった正妻・民子は、いったいどんな気持ちだったのでしょうか……。




東京にある大坂?!佃島の秘密に迫る!



今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
勝海舟は、歴史上でも稀にみる“先見の明”に優れた人物です。そして行動力が伴っていたからこそ、歴史に名を残すことができたのでしょう。幕末の三舟と言われるなかで、彼のように「人生を成功で終えたい」と考える人から絶大の支持を受けています。ちなみに私の個人的な統計では、「人生は博打である」と考える人は山岡鉄舟が好きで、「人生は清貧こそ」と考える人は、髙橋泥舟のファンであることが多いように思われます。
清水夏子さん
清水夏子さん
偉人の人生を「史跡から追憶する」というのは、とても楽しい体験でした。教科書や資料で読むのと違い、イメージがリアルに感じられた気がします。今回のコースは、東京の下町から山の手と、全く異なる雰囲気が感じられますし、大都会から牧歌的な風景まで楽しめる、欲張りなコースです。私たちは車で移動しましたが、電車と徒歩でも回れるので、みなさんも是非、史跡巡りを楽しんでみてください。