加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで、日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


九の巻

最後の傾奇者「赤穂浪士」の真実

忠義の為なら死をも恐れぬ「武士の鑑」として語り継がれてきた赤穂浪士たち。しかし史実から紐解く解釈は、少々異なります。
今回は「忠臣蔵」で有名な、元禄赤穂事件の知られざる史実をご紹介しましょう。主の仇討ちを果たした、彼らの本心とは?

歴史講釈

美談の裏に隠された「忠臣蔵」の真実?

なぜ忠臣蔵の物語は
人気が高いのでしょう?


「忠義」という日本人が好む
題材であることと、47人の仲間が
集まる過程など、物語として
脚色しやすかったからです。


明治政府でも活躍した 忠臣蔵の物語において、主人公を担う大石内蔵助の像。港区泉岳寺境内に建てられています。「武士の鑑」として外国人からの人気も高いようです。

 「忠臣蔵」で有名な元禄赤穂事件は、かつて年末になるたびに映像化されるほど人気がありました。この事件の発端は元禄14(1701)年3月14日、江戸城中「松の廊下」における刃傷沙汰にあります。折しも京都からの勅使饗応の期間中、接待担当の大名である赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が、儀式儀礼を指揮する立場の高家肝煎・吉良上野介義央(よしひさ)に斬りつけたのです。
 2度に渡り切りつけられたものの、吉良上野介の命に別状はなく、切りつけた浅野内匠頭は即日切腹、被害者とされた吉良上野介はお咎めなし。
 江戸時代は「喧嘩両成敗」が慣習法として浸透していたため、その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石内蔵助良雄(よしたか)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名は、主の敵討を誓います。

 紆余曲折の末、元禄15年12月14日未明に、本所へ移った吉良邸へ討ち入りし、見事その首級をあげたのです。
 当然ながら、浪士たちはその後、切腹となるのですが「生命を賭して主の汚名を晴らした忠義の武士」として、語り継がれたのが「忠臣蔵」の物語です。
 しかし、実際はどうであったのでしょう? 当時の時代背景や、さまざまな文献を照合していくと、そこにはまったく違った「赤穂浪士」の姿が浮かび上がってきます。
 そもそも、なぜ浅野内匠頭は、吉良上野介に斬りかかったのか?そして、なぜ浅野内匠頭だけが切腹を申し付けられたのか?
 今回は、知られざる「元禄赤穂事件」の史実を紐解いていきましょう。


加来耕三の東京歴史探訪

 
 キーマンはこの人。

「大石 内蔵助(大石良雄)」

1695年~1703年3月20日
播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。
諱(いみな)は「良雄(よしたか/よしお)」で、通称が「内蔵助(くらのすけ)」。一般にはこの大石内蔵助の名で広く知られている。

勝海舟
勝が生前こよなく愛した洗足池の風景。
大石の肖像画と兵庫県立歴史博物館所蔵の
「大石内蔵助義雄切腹之図」

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最後の傾奇者(かぶきもの)たちが一花咲かせようと集ったのが赤穂浪士

元禄赤穂事件とは、
どんな事件なのでしょう?


忠義というよりも「武士の一分」
を手にするために行われた
喧嘩でした
>勝が軍艦奉行時代に撮った集合写真。 打ち取った吉良上野介の首を洗ったとされる泉岳寺境内の井戸。

 浪士の討ち入りは“武士道の華”ともてはやされ、日本人の美学を代表するように、今日まで語り継がれてきました。ですが“忠臣蔵”の系譜は、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以来の文学の流れであって、もとより史実を伝えたものではありません。
 なかでも史実と異なるのが、「献身の道徳とその伝統」(和辻哲郎)として説かれてきた、「忠義」=「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」が、実は“世間”に対する自らの面子を立てるための行為であったことです。
 前述の通り、内匠頭は切腹なのに、上野介はお咎め無し。喧嘩両成敗のはずが、相手方はお咎め無しでは赤穂武士の面子が立ちません。そこで討ち入りへとつながったわけですが、四十七士の内訳を見てみると、不思議な現実に幾つも出くわします。
例えば、当時、赤穂藩を統率していた四人の家老のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助だけです。家老の下にいた五人の組頭は、全員、吉良邸へは推参していません。つまり、上級藩士の討ち入り参加者は、“家老”の内蔵助ただ一人だけであったことになります。
次いで、赤穂浪士の主力ともいうべき馬廻りクラスの19名。彼らは戦場において、主君の馬を守るのが役目ですから、参戦はうなずけます。ところが腑におちないのが、彼らとは別に、まとまった人数を出した軽輩の人々18名。彼らは藩主内匠頭の顔も、おそらく声すら聞いたことはないはずです。にも関わらず、仇討ちに参加しています。
 要するに彼らは50年前の世に溢れていた、「傾奇者」の生き残りなのです。「侍道」の勇気を重んじ、「一分」に体面を賭け、売られた「喧嘩」は買わぬことのない人々。そもそも「傾奇者」は戦国時代、合戦での勝利を唯一無二とした、武士のアイデンティティから派生したもの。
勝つためには己れの全てを放棄しても、決して悔いることのない精神です。しかし泰平の世となっては、その存在意義を失ってしまいました。そこで彼らが起こしたブームが「殉死」です。寛文3(1663)年に四代将軍・家綱が「殉死」の禁止を制度化しますが、一部の傾奇者は「殉死」への思いを捨て去ることができなかったのでしょう。彼らにとっては、純粋に主人の仇を討つのが主題ではなく、自分たちが世間に顔向けのできる「一分」を手にすることの方が、重大事であったわけです。
 その最大の具現者こそが大石内蔵助でした。内蔵助は譜代の家老でしたが、当時の藩を引っ張っていたのは、一代家老の大野九郎兵衛。内蔵助は「昼行灯」と揶揄されるほど出る幕がありませんでした。ところが、主君が不意に上野介に「喧嘩」を売った。このとき、初めて内蔵助は己れのやるべき役割を自覚したのではないでしょうか?
「殿の喧嘩を引き継ぐ――」
 これは譜代の、それも「傾奇者」の家老にしかできません。「喧嘩」をするからには、勝たねば意味がない。
 無鉄砲に藩士が吉良邸へ討ちかかって失敗でもすれば、赤穂武士の恥の上塗りになりかねません。開城―浅野家再興と、面子を立てる手順をみつつ、内蔵助は上野介の身辺を探索していきます。
 こうした内蔵助の「傾奇者」ぶりは、「喧嘩」途中の祗園や島原、伏見での派手な遊びにも、その人柄が垣間見えます。彼は幕府の目をごまかそうと芝居をしたのではなく、むしろ、“傾(かぶ)く”己れを世間に見せつけたかったのでないでしょうか。
 こうして内蔵助は見事に己れの「喧嘩」に勝ち、後世社会はこの人物を、“忠臣蔵”の主役に据えたわけです。
それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。
両国にある吉良邸から、御首をもって浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺まで引き上げた赤穂浪士たち。今回は、そのルートを辿りながら、当時のエピソードを振り返ってみましょう。

史跡探訪編

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浅野家の菩提寺
曹洞宗江戸三ヶ寺 泉岳寺



 赤穂浪士たちが仇討ちを果たしたあとに向かった、引き上げルートの終着地は、浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺です。 ここで持ち帰った吉良上野介の御首(みしるし)を洗ったといわれます。さらに、切腹を申し付けられた赤穂浪士たちも、この泉岳寺に埋葬されました。
日本のみならず外国からの観光スポットとしても人気が高いのは、やはり赤穂浪士が「武士」としての存在感を放っている証拠といえるでしょう。

東京都港区高輪二丁目11番1号


激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!

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両国~永代橋~明石町~新橋~高輪
安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。吉良上野介の像の前で、解説する加来先生。先生曰く、忠臣蔵の物語で、唯一まともな常識人こそ上野介だった。

こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、なくなるまで住んでいた屋敷です。両国橋が渡れなかったため、隅田川を渡るために、ここ永代橋まで迂回した赤穂浪士たち。
勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさん。観光用として復元された吉良邸の入り口にて撮影。中には吉良上野介の像や案内板なども展示されています。

赤穂浪士が実際に歩いた 討ち入り後の引き上げルートを辿る

 吉良邸のあった両国を出発点として、今回の撮影もスタート。
両国の吉良邸跡には、吉良上野介の像や、当時の資料が案内板として展示してあります。それを見ながら、加来先生の解説もスタートしました。
「この吉良上野介は名家が集う高家の筆頭であり、吉良家は足利将軍家の分家です。しかも上野介は各種儀礼に精通し、経験も豊富でした。一度として、大切な儀式・典礼を失敗することなく勤め上げたといいいますから、有能な人間であったことは確かです。浅野内匠頭は「このあいだの覚えたるか」といきなりを脇差しを抜いて斬りつけたそうですが、そもそも、この二人の間に「殺す」「殺される」ほどの遺恨を残すような接点はほとんどありません。文献を読み解くと、内匠頭は、これまでに奇行と呼べるようなこともたびたび行っていましたので、現代でいう“発達障害”をもっていたのかもしれません。何にせよ、恐らく上野介は、亡くなる最期まで、なぜ自分が斬らなければならないのかわからなかったでしょうね」
「そう聞くと、吉良さんが憐れに思えてきますね」
「私も、そう思います。忠臣蔵のなかでは悪人として描かれていますが、実際の彼は至極まっとうな人物でした」

 さて、吉良邸でようやく主の仇討ちを果たした赤穂浪士たちは、その御首をもって、最初は回向院へ向かったといいます。
しかし、回向院に断られたため、浅野家の菩提寺である高輪の泉岳寺へと向かうことに。そこで一同は隅田川沿いに下りながら、永代橋をわたることにしました。隅田川を渡り、今の新川を経由して、明石町にある浅野家邸と新橋の浅野内匠頭が切腹した場所を通過。そこから高輪の泉岳寺までの道のりは約10.6km。
 普通に歩いても2時間以上かかる距離を、赤穂浪士たちは20kgの装備でありながら3時間ほどで踏破したとあります。

「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。
新橋にある「浅野内匠頭終焉の地」。この付近で人気のお土産に「切腹最中」というアンコがはみ出したモナカがあります。

海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。
泉岳寺の境内に設けられた赤穂浪士たちの墓地。 切腹した人の墓石には、名前の前に「刃」の文字が刻まれています。


明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷のあった場所です。
道中、八丁堀の鐵砲洲神社にておみくじを引く二人。先生は小吉で、微妙な面持ち。赤穂浪士たちもこの神社を通過したようです。

海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。
明石町の聖路加国際病院横にある浅野家邸跡の石碑。この付近は幕末に蘭学が広まった場所でもあり、慶応大学や明治学院大学など、キリスト教系の学校発祥の地としても有名です。

「両国で大立ち回りとした後ですから、かなりの強行軍ですね」
 同じルートを辿りながら清水さんが感想を漏らします。
「こんな大人数で、よく討ち入りを果たせましたね。いくら何でも47人もの武装集団がいたら、幕府に知られなかったのでしょうか?」
「いいところに気づきましたね。これは、当時のいわゆる“士農工商”という身分制度の、実質的崩壊が背景にあります。武士は身分としては高いのですが、実質的に力を持っているのは金持ちの商人です。よく時代劇で、武士が刀を抜いて“無礼者!”と斬りつけるシーンがありますが、実際に武士が刀を抜くと、切腹沙汰の大問題です。つまり刀は抜いたら最後、ほとんど自滅を意味しています。町人もそれを知っているので、武士に対する恐れや尊敬の念はあまりなかったと思われます。」
「平和な時代は、武士にとっては辛い時代なんですね」
「肩身の狭い生活だったでしょう。そういったこともあり、幕府はこの事件を“武士の尊厳”復活の好機と捉えました。」
「つまり幕府が、見て見ぬ振りをしたというわけですか?」
「恐らくは、そうでしょう。その思惑は見事にあたり、赤穂浪士たちは『忠臣蔵』の物語として人気を博したわけですから。」
「そうなるとますます、吉良さんがかわいそうですね…」
「ひどい巻き沿いにあってしまっただけでなく、長らく悪人として語られてきたのですから、たまったものではないですよね。とはいえ、近年になって、史実が知られ始めたことで、彼の人格や功績も正しく評価されはじめてきました。」


文・構成 編集部 / 監修 加来耕三


 

 

今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
これまで人気を博してきた『忠臣蔵』の物語。最近はあまり映像化されなくなってきましたよね? これは今回紹介した史実が知られてきたことと「忠義」に対する日本人の価値観が、変化してきた結果だと思われます。冷静にみれば、事件というよりも喧嘩と表現した方が正しい元禄赤穂事件。彼らは時代に取り残された最後の「傾奇者」でした。
これからの時代、どんな人達が望まれているのか、考えさせられるテーマでもあります。
清水夏子さん
清水夏子さん
歴史が語り継がれるのは、必ずしも史実とは限らない、ということを再認識。実際に赤穂浪士が歩いたルートを辿ってみて、どれだけの強行軍だったのかも実感できました。
資料を読んだだけでは、こういった経験や実感は得られませんよね。みなさんも是非、自分の足で現場に赴き、史跡に触れてみてください。何か新しい発見に出会えると、さらに歴史は楽しくなりますよ。