加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで、日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


十の巻

誠の“武士道”を貫いた吉田松陰

幕末という激動の時代を、まさに駆け抜けた人物、吉田松陰。わずか30歳でこの世を去ってしまったにも関わらず、彼の思想は現代社会においても脈々と息づいています。ずば抜けた頭の回転の早さや、達観した死生観は、どんな環境で育まれたのでしょう? そんな彼の人生を紐解きます。

歴史講釈

吉田松陰の思想の源に迫る

吉田松陰の思想は、
どう育まれたのでしょう?


幼いころから英才教育を受けて
いましたが、 半農生活のなかで、
実学を学びとっていたようです。
明治政府でも活躍した 黒船への密航を企てたり、老中暗殺を計画したりと、かなり破天荒な面を持つ吉田松陰。

 吉田松陰は天保元(1830)年に、父を杉百合之助常道、母を滝に7人兄弟の二男として生まれます。父・百合之助は長州藩士でしたが、家禄はわずかに26石でしたので、半農で生活を支えていました。松蔭が6歳のとき、叔父の吉田大助の養嗣子となり、山鹿流兵学師範の将来を約束されますが、幼年期はいまひとりの叔父・玉木文之進の厳しい英才教育を受けて成長します。 実は世に言う「松下村塾」は、この叔父・玉木文之進が創立したものであり、松蔭が継承したものです。 藩録であった文之進は、非役のときに、畑を耕しながら松蔭に漢字を教えていました。ある日、書物を朗読中の松蔭の頬に蠅がとまり、片手で頬を掻いたところ、文之進は激怒して、松蔭が失神するほど殴りつけたそうです。
「聖賢の書を読む行為は“公”であり、頬を掻くのは“私”の行為である」
つまり“公”の仕事をする際に“私”を想うことは許されない。幼い頃にこれを徹底することで、公私の別を身につけさせようとしたようです。この教えは、その後の松蔭の行動を決めるときの指針となっています。
「国を治め、天下を平にする」ーーこの道理を身につけることこそが、江戸時代における学問の目的です。

 彼ほど、生涯を通じて「日本国」の行く末を考えて行動した者はいないでしょう。 自分の命よりも「国」を優先する、その精神こそ、彼のいう“大和魂”であり、その精神に殉じた彼は、まさに武士の鑑ともいうべき存在だといえます。

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キーマンはこの人。

「吉田松陰」

1830年9月20日~1859年11月21日
吉田松陰は、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知ると、討幕の計画を建てました。それらは実行こそされませんでしたが、その批判が幕府の耳に入り、野山獄に幽囚されてしまいます。江戸に檻送され、評定所で取り調べの際には、自らの熱意を伝えようと、老中暗殺計画までも告白してしまいました。残念ながら、松蔭の「救国魂」は、幕府に伝わる事なく、死罪が言い渡され、即日処刑が行われました。享年30。

戒行寺
吉田松陰の肖像画と、回向院に残る松蔭の墓石。

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今なお名を残す“松下村塾”の人気のヒミツ

松下村塾とは、
どんなものだったのでしょう?


塾というよりも、お互いの
人生を語り合う道場の
ようなものでした
>勝が軍艦奉行時代に撮った集合写真。 松下村塾は、復元されたものも含め、全国で3カ所あります。東京では世田谷の松蔭神社内に復元されています。

 吉田松陰が「松下村塾」で教えていたのは、わずかに3年間。その短い間に、明治維新を語る上で欠かせない重要な人物を多く輩出できたのは、なぜなのか? これは、彼の教えはもちろんのこと、彼の人柄が大きく影響しているといえます。
 松蔭は一切の建て前や形式を捨てて、本音のみで門人たちに接しました。師と弟子という上下関係ではなく、「兄弟のつもりで共に学ぼう」と語りかけたのです。そもそも、松下村塾は近在の子弟に読み書きを教える塾として発足して以来、授業料というものは取らなかったとあります。教育が趣味であったともいえますが、違う捉え方をすれば、松下村塾は学問の場というよりも、人生を語り合う道場としての趣きがあったともみなせるでしょう。 授業料を取らないのですから、門下生の階層も下級藩士の子弟が多く、なかには近所の魚屋の子までくるといった、寺子屋のごとき喧騒ぶりだったようです。しかし、松蔭はこれを一向に気にする事なく、彼はこれら門弟を「同学」と呼んで親しみ、天下のひとかどの人物のように扱ったといいます。

 それは決してゴマをするというのではなく、むしろ塾生達の長所を見いだす事に秀でていたことを物語ります。実際に松蔭と語りあった者は、例え凡人であっても、まるで自分が偉人になったかのような錯覚をおぼえ、知らず知らずに気持ちが昂揚せずにはいられなかったとか。
 そういった教え上手な面もあり、久坂玄瑞や高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文といった、非常に優れた門下生が輩出されました。そのなかでのひときわ優秀であったのが、久坂玄瑞と高杉晋作であったといわれます。
 そのなかでも、久坂玄瑞はずば抜けて内外から、その実力が認められていました。それを示すエピソードのひとつとして次のことが挙げられます。
 松蔭には文(ふみ)という妹がいましたが、その嫁ぎ先として、久坂玄瑞を強く押すほど、松蔭は彼を信頼していたようです。その文は久坂玄瑞が亡くなった後、楫取素彦(かとりともひこ)と再婚しました。その彼女こそ、2015年の大河ドラマの主役である楫取美和子(みわこ)、その人です。
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松蔭にとって兵学を教わった師の一人である佐久間象山   高杉晋作。久坂とともに松下村塾の双璧と称された
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松蔭がもっとも信頼していた第一の弟子・久坂玄瑞   久坂に嫁いだ松蔭の妹、文。後に再婚して楫取美和子と名乗る

それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。
自身の「忠国魂」を示すために、死すらも迎え入れた吉田松陰。その魂は、門下の人々によって神格化され、遂には神社に奉られるほど。それほどまでに、彼の教えや思想は人々の心を揺さぶるものだったのでしょう。その証として建立された松蔭神社へ訪れてみました。
史跡探訪編

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世田谷区 松蔭神社

 吉田松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3(1863)年、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が、かつて長州藩主の別邸があった場所に改葬されました。
 さらに明治15(1882)年、門下の人々によって、墓の側に松陰を祀る神社が創建されます。それが、今回訪れる松蔭神社です。
 神社には、松下村塾を復元したものが建てられています。

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世田谷区 松蔭神社
安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。小じんまりとしながらも開放的な境内は、地元の人の憩いの場所としても愛されています。

こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、なくなるまで住んでいた屋敷です。表門の横には、松下村塾の門下生一覧が。改めて見ると、そうそうたる面々が揃っています。

勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさん。あいにくの雨模様ですが、神社のなかには松下村塾やお墓を訪れる人の姿がチラホラと見えました。平日にも関わらず、人が訪れるだけの魅力が松蔭にはあるということですね。

松蔭の凄さを物語る仰天エピソード。日本の危機を誰よりも早く察知していた?!

 そもそも、神様として奉られる人物というのは、徳川家康のように統治者の権威を表すためだとか、平将門や菅原道真のように、怨念を鎮めるため、といった理由が一般的です。そんななか、吉田松陰のように一般の人物が神格化されるのは非常に珍しいものなのだそうです。今回の史跡探訪は、享年30という若さで、他界した松蔭の業績を、門弟である桂小五郎らが世に広めようと奔走し、後の明治に建立された松蔭神社に訪れました。

「吉田松陰ほど、早くに亡くなったことが惜しい人物はいないかもしれません」
いつもは辛口な加来先生が、珍しく絶賛しています。
「幕末・維新の志士たちのなかで、彼はどんな存在だったのでしょう?」アシスタントの清水さんが、率直な疑問をぶつけると、
「彼は志士たちの精神的な支柱といえる存在でした。本人は“大和魂”という表現を使っていましたけど、今で言う“武士道”を貫いたが故に、自らの“死”でさえも、甘んじて受け入れた最期は、見事としかいいようがありません」
「かなり若くして亡くなっていますけど、それほど達観していたのでしょうか?」
少し考え込むような表情をする先生。
「ちょっと脱線しますけど、“泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいでよるも寝られず”という有名な狂歌がありますよね。そもそも、ペリーの黒船が来日して、なぜ日本はパニックになったのだと思いますか?」まさかの、質問に質問で返す先生。

「初めて異国文化に触れ、異質な黒船が怖かったからでしょうか?」
「ちなみに、幕府は『オランダ風説書』によって、ペリーがやってくることも、その陣容も具体的に知っていました。
さらにジョン万次郎の帰国でアメリカの最新情報も摑んでいたのです。しかも、ペリーが来日する前にも、黒船は日本を訪れています。 ではなぜ、ペリーのときにパニックになったのでしょうね?」

「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。
処刑されて回向院に埋葬されていたのを、その後、高杉晋作など松蔭の門下によって改葬されたのが、現在の松蔭神社に隣接するお墓です。

海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。
常に献花が絶えず、きれいに保たれていることからも、吉田松陰が今なお絶大な人気を誇る証といえるでしょう。


明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷のあった場所です。
神社内には吉田松陰の銅像が2カ所に建てられています。この像は、神社の中央部に座したもの。もうひとつは松下村塾レプリカの横にあります。

海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。
本道の横には、松下村塾を復元したものが建てられています。通常、土曜日と日曜日に雨戸が開放され、内部をみることも可能です。

なかなか難しい質問です。
「実は、ペリーが帰国する際に行ったデモンストレーションが、引き金でした。江戸湾に侵入した黒船は、さらに品川まで進み、遊弋(ゆうよく)します。
このとき、黒船に搭載されていた当時の最新兵器“ペグサン砲”の威力を知っていた心ある侍だけが、衝撃を受けたのです。ペグサン砲は、すでにヨーロッパの陸戦で使用されていましたが、炸裂弾を使用するため、艦上砲としては一般的ではありませんでした。
ところがペリーは、それを搭載している。その船が江戸の町から直ぐの距離である、品川に侵入してきたわけです」
「その炸裂弾が江戸の街に放たれたら、あっという間に壊滅してしまいますね…」
清水さんが、神妙な表情で答えます。
「そういうことです。当時の知識人は、黒船の存在は知っていて、ペグサン砲の能力も知っていました。しかし、それが一緒になり、なおかつ懐に入り込まれるまで、その危険に気づけなかったのです。ところが、この危険にいち早く気づいていた者がいます」
もしかして、それが吉田松陰でしょうか?
「ペリーが来航する3年前、当時20歳の松蔭は、長州の萩から、長崎へ遊学を試みました。途中、平戸(ひらど)の葉山左内(はやまさない)を訪ね、そこで熱心に本を借り、読み、筆写しています。そのときの彼のメモに蒸気船の有効性と、ペグサン砲の有効性が説いてありました。つまり、蒸気船ならば、風向きに関係なく湾内に出入りできて、そこに威力ある攻撃を加えることが可能になる、と考えていたのです。これは、ペリーが黒船でデモンストレーションした戦術そのままです。それを3年前に描いていたことになります」

 なるほど、松蔭は早くから大成していたのですね。神格化されるのも納得できるエピソードです。


文・構成 編集部


 

 


今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
戦国時代や幕末といった、激動の時代には、優れた人物が多く輩出されます。吉田松陰も、まさにその偉人のひとりです。
現代社会に生きる私たちは、先人たちの思想を理解し、今の生活に役立てられるようにすることが大切です。彼が示した“大和魂”は、今の世にこそ知ってもらいたい思想のひとつですね。
清水夏子さん
清水夏子さん
一般の人でありながら神格化された人物の史跡には、これまでとは少し違った雰囲気を感じられました。
他の神社ほど厳かな雰囲気ではないものの、自発的に崇拝する姿勢は、等身大の“敬い”の気持ちが現れていたように思えます。ぜひ一度は訪れて欲しい史跡です。