加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで、日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


十一の巻

誰よりも“武士”らしさを貫いた男たち“新撰組”

幕末という激動の時代、武士への強い憧れから、誰よりも“武士”としての立ち居振る舞いにこだわり続けた男達がいた。時代の奔流に飲み込まれながらも、武士としての役目を頑なまでに貫き通した“新撰組”。不器用なまでに愚直に生きた男達の生き方を振り返ります。

歴史講釈

新撰組の実力とは?

新撰組は本当に強かったのですか?


道場での試合は弱かったようですが、
実戦においては負け知らずの
剣客集団でした。

明治政府でも活躍した 明治政府でも活躍した
新撰組の主君である会津藩主・松平容保の肖像画。   天然理心流の試衛館で実際に使用されていた木刀。(日野市所蔵)

 文久2(1862)年、江戸幕府は、14代将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で「浪士組」として一団を結成。その後、浪士組は江戸と京都に別れ、京都に残った方が新撰組の前身である「壬生浪士組」となり、江戸に戻ったメンバーは「新徴組」となりました。壬生浪士組は京都守護職の松平容保から、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任されると、数々の業績を上げます。それが評価され、「新撰組」へと改名されました。
 資料によって“新撰組”と表記される場合と、“新選組”と表記される場合がありますが、実際のところはどちらも正しいようです。
というのも、当時は漢字の表記に厳密な決まりはなく、公的な資料においても、両方の表記が混在しています。

 新撰組の名を世に轟かせたのは、元治元(1864)年6月5日の池田屋事件でしょう。20数名の尊皇攘夷派志士を斬殺・捕縛したこの事件、いまでいうクーデターを未然に防ぐという功績を残した新撰組。

20数名の攘夷派に対し、最初に切り込んだ新撰組隊士はわずか4名です。残りの隊士や応援にかけつけた隊士は屋外を囲んでいたと言います。このときの襲撃による戦闘の激しさが、彼らの一騎当千ともいうべき戦闘力の高さを証明したのです。
 こうして、佐幕派の戦力として自分たちの地位を築いた新撰組は、慶応3(1867)年6月、ついに幕臣へと取り立てられます。 もともと浪士組は、腕に覚えがある者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問わず、参加できるというもの。当然ながら、メンバーのほとんどは農民の息子や、商人の放蕩息子といった荒くれ者ばかり。そのため、武士という身分に成りたくて剣術を学んだ者が多く在籍していたようです。
 彼らは剣道の道場で商売をするのではなく、あくまで武士として働く事が目的です。そのため、実戦で役に立つ剣術を身につけることを第一としていました。だからこそ、道場の試合では負けても、実戦においては非常に高い戦闘力を誇っていたのです。

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 キーマンはこの人。

「新撰組」

文久3(1863)年2月8日 〜明治2(1869)年5月18日
諸藩から尊皇攘夷・討幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した京都では治安機関として京都守護職が新設され、会津藩主の松平容保が就任。その配下で活動した軍事的組織が新撰組です。京都で活動する不逞浪士や討幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などを行い、慶応3(1867)年6月には幕臣に取り立てられます。戊辰戦争では旧幕府軍に従って戦い、敗戦に伴い解散しました。

戒行寺
新撰組の隊規として知られる「局中法度」。実際には政治的に利用しただけで、実行は徹底されませんでした。

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新撰組の人気の秘密

新撰組はなぜ多くの人に
支持されるのでしょう?


不器用なまでに“武士”を
貫くことで非業の最期を
迎えたからかも知れません。
五稜郭 新撰組の最後の大舞台であった函館の五稜郭。この敗戦で、戊辰戦争は終結。生き残った隊士も散り散りとなり、ここに新撰組の幕も引き下ろされた。
 誰よりも武士としての誇りを大切にした新撰組。彼らは時代の流れに乗り、武士に上り詰めました。しかし、残念ながら時代はすでに“武士”を必要としなくなっていたのです……。
 忠実に任務を全うし、仁義を大切にしてきた彼らは、小規模な戦場においては非常に優秀です。それをまとめていた近藤勇の手腕は、人並外れていたといえるでしょう。しかしながら、経済に関することや、世の流れを俯瞰(ふかん)する能力は、それほど高くなかったようです。それゆえに、彼らは非業の最期を遂げてしまいます。
 これまでは幕臣という立場で、“正義”の名の下に戦っているという自負をもっていた新撰組。しかし戊辰戦争は、いわば薩長を中心とした新政府軍と徳川政権との戦争です。当然ながら新政府の軍隊は、官軍となり、その敵対勢力である旧幕府軍は“賊軍”と呼ばれてしまいます。 新撰組にとっては、常に任務に忠実であり、同じ事をしているにも関わらず、賊軍という扱いを受けてしまうことになりました。
 しかも官軍の装備は当時の最新式小銃です。刀で戦う新撰組では、近接戦闘に持ち込む前に、大半が被弾してしまったでしょう。それでも、最期まで戦い抜いた。そんな不器用なまでに自分たちの生き方を貫いた男たちの生き方は、素直に格好よく映ります。
 また、新撰組が高い人気を誇るもうひとつの理由は、非常に優れた剣客集団であったということです。実戦での負けは、すなわち“死”です。彼らは、長きに渡り勝ち続けてきた、真の強者の集まりでした。その中でも、近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一、永倉新八といった名だたる剣士は、小説や映画、アニメなどの物語においても個性的なキャラクターとして描かれています。

 史実では、新撰組が常に正しかった訳ではない出来事も数多く存在していますが、それでも『一騎当千の男たちが、戦力的に適わないと知りながらも戦い抜いた』という史実は、人々の心を揺さぶるものがあるのでしょう。
激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!
総司の姉ミツの長男芳次郎の次男・沖田要をモデルに描かれた沖田総司の肖像画。
激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!
3番隊組長の斎藤一。長男・勉をもとに描かれた肖像画。
激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!
洋装に身を包む新撰組副長の土方歳三。
激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!
言わずと知れた新撰組局長の近藤勇。
それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。

新撰組の中心人物のひとり土方歳三が生まれた街「日野宿」。現在の東京都日野市には、新撰組に関する資料を展示した歴史館があります。今回は新撰組全体を扱うため、史跡ではありませんが、「日野市立 新選組のふるさと歴史館」を訪れました。

史跡探訪編

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日野市立 新選組のふるさと歴史館

 新撰組副長の土方歳三が生まれた街「日野市」が運営する新撰組の資料館。新撰組の誕生から終焉までを、周辺も含めて通史的に扱うことで、歴史の流れの中での新撰組の位置づけを試みた展示内容です。新撰組に関することだけでなく、日野宿の歴史も学べます。

東京都日野市神明4-16-1  042-583-5100
9:30〜17:00(入館は16:30まで) 月曜日定休


激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!

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新選組のふるさと歴史館
安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。歴史館には、日野市が所蔵する資料の他、個人所蔵の貴重な資料も多数展示されています。
こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、なくなるまで住んでいた屋敷です。塗り絵コーナーには、訪れた人たちの作品が展示されています。新撰組は、老若男女問わずに人気者です。


勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさん。歴史館のロビーに設置された記念撮影コーナーにて。新撰組の羽織を着て清水さんが一言。「今宵の虎徹は血に飢えている(笑)」



土方歳三の生誕地には新撰組の強さの秘密が展示されていた?!

 新撰組といえば、活躍をしたのは京都ということもあり、東京に残る史跡の多くは、個人のお墓がメインとなってしまいます。それでは“新撰組”全体を語るには、あまり相応しくないということで、今回は「日野市立 新選組のふるさと歴史館」に訪れました。日野は、副長の土方歳三の故郷として知られる地です。

 歴史館のロビーに入ると、壁に新撰組屯所のパネルが設置されていて、そこで記念撮影ができるようになっています。
「みんな新撰組の羽織を着て撮影しているんですね」とアシスタントの清水さんが、飾られた記念写真を眺めながら一言。
「それなら、ちょっと衣装を借りてみましょう」と加来先生が、歴史館のスタッフの方に話しかけます。
 歴史館では、記念撮影用に新撰組の羽織と袴をセットでレンタルできるのです。他にも洋装の土方歳三と同じ洋服やブーツも用意されています。サイズも各種揃えられていて、誰もが気軽に変身できるので、人気のようです。
 歴史館に訪れたのは平日ということもあり、お客さんは少なめでした。そこで、特別に許可をいただいて、撮影用の衣装をお借りしたまま、取材を開始。
 順路に沿って展示を眺めていると、当時の試衛館で使用されていた木刀や、土方歳三が所有していた刀など、とても貴重な資料の数々に、加来先生も興味津々。
「新撰組といえば、やはり天然理心流のイメージがありますよね。この流派は、非常に実戦的な稽古を行っていたことで有名です。実際、彼らは実戦においては、非常に強かった。にも関わらず、いわゆる道場での試合は、得意ではなったようです」

「それは何が違ったのでしょう?」



「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。 日野は、新撰組副長・土方の生誕地。新選組のふるさと歴史館の近くには「土方歳三資料館」もあるので、取材後に立ち寄ってみました。

海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。 残念ながら当日は閉館日……。資料館は民家に隣接されており、改札を見ると「土方」の名が。


明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷のあった場所です。 戊辰戦争の結果を左右したのは、銃をはじめとした近代兵器と戦術。刀剣での近接戦闘を得意とした新撰組は、遠隔戦では活躍できなかった。

海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。 東軍流17代宗家であり、タイ捨流免許皆伝でもある加来先生が、実戦での剣術と道場剣術の違いを披露。鎧を着ていると肩が上がらないので、横向きに構えるのだそう。

「実戦においては、技術はもとより胆力(精神力)が勝負の要となるようです。天然理心流は、この胆力を鍛えることを非常に重視していました。」
「ここにある太い木刀もそのためですか?」
 清水さんが、展示されている木刀を手にしています。ここには、実際に触れる事ができる参考展示品が置かれていました。
「この太い木刀は、天然理心流で使用されていたと言われていますね。持ってみるとわかりますが、太い木刀というのは重いだけでなく、持ちづらい。この木刀で、基本の構えを続けることは、握力はもちろんのこと、気力というか胆力が必要となるんです」
「なるほど、そうやって日々の稽古を重ねていたからこそ、新撰組は実戦で強かったのですね」
「実戦を重ね続けた経験こそが、新撰組の強さの理由なのですが、経験を積むには最初の切り合いを生き延びなければならない。それにはやはり胆力がモノをいうのだと思います」
 明治に藤田五郎と改名し、警視庁に務めた三番隊組長の斎藤一が、後に語った記録があります。
「真剣による斬り合いというのは、敵がこう斬り込んできたら、それを払って、その隙にこう斬り込もうなどと、段取りできるものではない。ただ夢中に斬り合うだけなのです。こちらが鎖を着ているのがばれ、斬らずに突け、突け、と敵の喚(わめ)くのが耳に入り、よし突いてくるなら、こちらも突いてやる、そう決心したくらいのものでした」
 彼は天然理心流でなく、無外流の遣い手でしたが、やはり実戦は技巧よりも、胆力、度胸ということのようです。

 新撰組の強さの秘密を、文献から紐解くだけでなく、実際に触れてみる事で、実感できたような気がします。


文・構成 編集部、監修 加来耕三


 

 


今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
新撰組は幕末でなければ武士になれなかった男たちの集まりです。だからこそ、彼らは“武士”としての役割や立ち居振る舞いに、人一倍こだわりを持っていました。誰よりも武士らしくあろうとした姿勢は、生粋の武士でなくとも、まさしく最後の武士と呼べるものでしょう。しかし、残念ながら時代が既に“武士”という存在を必要としなかったのです。非業の最期を遂げた新撰組でしたが、彼らは最期まで武士として生き抜きました。そこに後悔という文字は無かったことでしょう。
清水夏子さん
清水夏子さん
戦国の世から250年以上、ほぼ大きな争いのなかった江戸時代も、最後は殺伐とした世の中となってしまいました。実戦を経験したことがない武士が大半であった世の中で、剣の腕だけで伸し上がった“新撰組”。彼らの強さの秘密に触れることができて、とても楽しかったです。当時の貴重な資料を見ていると、彼らの躍動感が鮮明に思い浮かびました。いつもの史跡とは違った満足感が得られますよ。みなさんも、ぜひ訪れてみてください。