加来耕三の東京歴史探訪
加来耕三の歴史探訪

1958年生まれ。大阪市出身。大学・企業の講師を務めながら、歴史家・作家として著作活動を行っている。TV・ラジオ等の番組監修、出演なども多数。


7カ国の血を受け継ぐ大分出身のハーフ(父が仏国をルーツに持つ欧州系米国人で母が日本人)。日本が大好きで、日本の伝統文化や職人技を若者に広めていくことが目標。


十二の巻

生涯、前だけを見続けた本物の絵師

死の直前まで絵を書き続け、生涯現役を貫いた葛飾北斎。齢90まで生きた天才画家は、数々の傑作を世に送り出しながらも、自身の作品に満足することなく、常に前を向き続けていました。そんな“画仙”の人生を振り返ってみましょう。

歴史講釈

絵を描く事以外はからきしのダメ人間?

北斎とはどんな人物だったのですか?


絵を描くこと以外のことには
文字通りの“無頓着”で
食事の用意や着るものさえも
誰かに面倒をみてもらっていました
>勝が軍艦奉行時代に撮った集合写真。 『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」。北斎の最も有名な作品。世界的な評価も高く、多くの芸術家に影響を与えたといわれています。

 日本が世界に誇る“フジヤマ”をヨーロッパの人たちに最初に印象づけたのは『冨嶽三十六景』を描いた一代の浮世絵師・葛飾北斎です。
北斎の画風は、彼を日本画壇史の奇跡のごとくに敬ったゴッホやゴーギャン、ゴヤ、マネらが遠くヨーロッパの地で驚嘆し、身震いを覚えるほどのセンスでした。自由自在な奇想。
言い換えれば絵空事ーー例えば富士山を現実の世界から開放し、人々のさまざまな生活の中に脇役として描くという、画期的なものです。

 これまでの常識に囚われない自由な発想は、私生活にも現れていました。といっても、あまり良い意味ではありません。
北斎は、生涯93回も引っ越しをしています。



掃除や整頓といった概念のない北斎は、部屋が住めない程ちらかると、引っ越しをするということを繰り返していたようです。自炊はせず常に買ってきたものをそのまま食べる。だから食器さえももっていなかったといいます。さらにお金に関しても無頓着で、いくら稼いで、いくら払ったのかを気にしたこともない。そのため、支払いをごまかされても気づかないことが多かったようで、常に貧困生活を送っていたとあります。
 本人は酒や博奕にも興味がなく、ひたすら画力を磨くことに没頭して人生を過ごしました。極端にいうと、自身や家族の生活に関してさえも興味がなかったのです。恐らく「死んだら絵が描けないから、死にたくない」「画材を買わなければいけないから、稼がなければいけない」そういった最低限の事柄しか、意識していなかったのではないでしょうか?

加来耕三の東京歴史探訪

 
 キーマンはこの人。

「葛飾北斎」

宝暦10(1760)年9月23日 ~ 嘉永2(1849)年4月18日 江戸時代後期の化政文化を代表する浮世絵師。代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家です。1999年には、アメリカ合衆国の雑誌『LIFE』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしました。

北斎の自画像
北斎の自画像
天保10年と13年に描かれた北斎の自画像。80歳と83歳という晩年期の作品。

加来耕三の東京歴史探訪

北斎が世界的に認められる理由とは?

変幻自在の画法は、どうして

身についたのでしょうか?



当時としてはタブーとされた
様々な流派を渡り歩いて

修行をしたからです

勝が軍艦奉行時代に撮った集合写真。 『節李の商家』 肉筆画。北斎と娘の葛飾応為の合作。オランダ商館医であったシーボルトが国へ持ち帰ったと伝えられる1枚。オランダ国立民族博物館所蔵。

 文政年間(1818~30)から世に出回りはじめた北斎の富士=冨嶽は、天保2(1831)年になって36枚となり、出版元から改めてまとまった形で売り出されました。そのなかで北斎はこれまでの日本人が思いもよらない“富士”の姿を描き分けています。三十六景には「赤富士」もあれば、2体の富士もあり「逆(さかさ)富士」と呼ばれるものもありました。その斬新で画面に生気溢れる筆力は、さらに“裏十景”を加えて四十六景に及びます。特筆すべきなのは、どれ一つとして同じ筆法で描かれたものがな、いということです。
 なぜ無限に近い技法を、彼は描き分けることができたのでしょう? 彼ははじめ彫師について木版彫刻の技法を学びました。その後、19歳になると当時一世を風靡していた勝川春章(しゅんしょう)の門を叩いて、本格的な絵画の修行に入ります。しかし春章が他界すると勝川派を離れて狩野派へ、さらには三代目・堤等琳(とうりん)について漢画を習得。その後は住吉広行に従い土佐派へ移るだけでなく、司馬江漢(こうかん)の洋風画および銅版画の技法や別途に中国画の研究にも余念がありませんでした。
 彼は新たな画法を身につけるたびに、改名を重ねています。それほどまでに作風の変化は大きかったといえるでしょう。
 しかし、こうした手法は、当時の画壇では考えられないものでした。絵画は一つの流儀・技法を学び、深めるものであって、渡り歩いて習得するものではなかったのです。当然、北斎は破門もされています。
 様々な画法を習得した北斎は、晩年、全ての存在は「方」=角と「円」=丸からできているという極地に達しました。その角と円の理に通じることができれば、万物を思い通りに描くことができる、と言い切っています。確かにセザンヌ(1839~1906)は角と円で自然を描くことに成功しましたが、その作品は角が勝ちすぎて、必ずしも北斎ほどに絵の面白みはありません。そのセザンヌの理論を一層すすめたピカソ(1881〜1973)は、形と色のみで絵画を構成し、抽象芸術を生み出しました。しかし、北斎はすでにその誕生にもっとも近い所まで、はるか以前にたどり着いていたのです。北斎は近代絵画の行く先を見つめていたのではないでしょうか。
それでは、今回の史跡スポットを巡ってみましょう。

葛飾北斎の名を冠した通り、墨田区の「北斎通り」を訪れました。 ここは両国と錦糸町をつなぐ主要道路の一つでもあり、通りの両岸にある街灯には、北斎の作品レプリカ103点が掲示されています。
史跡探訪編

加来耕三の東京歴史探訪


北斎通り


かつての江戸・本所南割下水(わりげすい)の排水路を暗渠(あんきょ)化して道路にした通り。東京都江戸東京博物館の建設を機に整備され、この名に改められました。北斎の生地とされる割下水の南部に位置することを基として「北斎生誕の地」を謳う碑が建っています。通りの街灯に北斎の浮世絵が貼られています。


東京都墨田区亀沢1丁目から錦糸公園への通り


激動の時代を駆け抜けた生涯を追う!

加来耕三の東京歴史探訪


亀沢1丁目付近
安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ赤坂にある旧邸跡。現在は1階が喫茶店のマンションに。街灯に飾られた北斎の浮世絵を見ながら、早速、加来先生のレクチャーがスタートした模様。
こちらも赤坂にある勝安房邸跡。明治5年から、なくなるまで住んでいた屋敷です。葛飾北斎の生誕地から名付けられた“北斎通り”。両国と錦糸町をつなぐ、付近のメインストリートでもあります。
勝海舟は、本所亀沢町にあった父・小吉の実家、男谷邸内で生まれました。現在は公園になっており、記念碑が残っているだけですが、この周辺は芥川龍之介や吉良上野介義央の邸宅跡など、有名な史跡がたくさん。「北斎生誕の地」の碑と一緒にパチリ。北斎の生涯について簡単な解説も書かれています。以前あった場所から、若干移動されて、現在は和菓子屋さんの前に建てられていました。




葛飾北斎の生誕地は史跡の宝庫!

 葛飾北斎が生まれた土地である、現代の墨田区亀沢には「北斎通り」という名前の通りがあります。ここは、両国と錦糸町をつなぐ大きな通りです。今回は、この通りに掲示されている北斎の作品レプリカを鑑賞しながらのお散歩です。
 取材は、都営地下鉄大江戸線の「両国駅」にある「江戸東京博物館」の前からスタートしました。
「あ、ここに北斎通りの支柱があります。広い通りだから、商店街のガードの様に目立つ装飾はできないのでしょうね」
 アシスタントの清水さんが早速、北斎通りの印を発見。
「ここ両国の付近は、実は史跡の宝庫なんです。この連載でも過去2回ほど、この近くを紹介しています」
「赤穂浪士のときと、勝海舟のときですね」
「その通りです。今回は線路を挟んで反対側エリアの両国をご紹介しましょう。ここから錦糸町までの道のりが“北斎通り”と呼ばれているんです」
 この北斎通りの街灯には北斎作品のレプリカが掲示されていて、その数は実に103点。通りの両側に街灯があるため、全てをみるには通りを往復しないといけません。
「全部をみるにはちょっと疲れますけど、片道だけでも十分に楽しめると思いますよ」とは先生の言葉。
 確かに途中にある公園に設置された周辺地図には、史跡の解説と位置が記されています。それをみると、実に多くの史跡があることに気付かされました。
「北斎とは関係ないのですが、歌舞伎狂言作者として知られる河竹黙阿弥や、作家の芥川龍之介など、時代やジャンルは違えども天才に纏わる史跡が多いのが面白いですね」とは清水さん。
 いろいろな史跡をチェックしながら散歩を続けていると「葛飾北斎生誕の地」に到着。
「以前あった碑から、場所がちょっと移動したみたいですね。でも看板形式になって、解説は読みやすくなったかな。」
 先生の記憶とは違っていたようで、調べてみたらやはり場所が移動されたとのことでした。
「北斎は相当の自信家で、73歳のとき『ようやく禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟ることができた。だから80歳になればますます進化し、90歳になれば奥義を極め、100歳にして神妙となり、110歳なら一点一画を生きているように描いてみせる』と述べています。それでありながら、最晩年には『だめだ、だめだ、線一つ満足に引けねぇ」と娘のおえい=葛飾応為(おうい)に泣き事をいっていたようです。自らを天才と自負していた人物であっても、己れの才能を省みて、しゅんとした思いに浸ることもあったんですね。『あと5年、天が我を生かしてくれたら、正真正銘の絵師になれるのだがなぁ…』という言葉を残したのは有名な話ですけど、おそらく北斎には、自分のたどり着く先の姿が、おぼろげながら見えていたのでしょう。なんという才能でしょうか」
世の中のしがらみや、世間の常識でがんじがらめな現代社会だからこそ、既成の概念に囚われず、最後まで前だけを見つめ、精進し、つんのめるようにして倒れた“画仙”の生き方に学びたいものです。


文・構成 編集部、監修 加来耕三

明治維新前夜、慶応4年3月14日、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷のあった場所です。
街頭に貼られた北斎の複製浮世絵。ラミネート加工されたものが貼られているだけなのが残念。せめて額縁のようなものがあったらよかったのに……

海舟の別邸「洗足軒(千束軒)」の跡。現在は大田区立大森第六中学校ですが、当時は茅葺きの農家風な建物であったようです。
両国付近は、史跡の宝庫。いたるところに史跡の看板が林立しています。街の景観を損なわないにとの配慮なのか、あまり目立たないので、その多くは気づかれていないかも知れません。

「富士を見ながら土に入りたい」との思いから、生前別邸背後の丘に造った墓所。大田区の文化財に指定されています。
あまりの史跡の多さに、付近の地図には史跡の位置と解説が描かれています。これを見ていると、意外と見逃しているものが多いことに気づくはず。

海舟が愛した風景。現在は見えないが、当時はここから富士山が望めたそう。そんな当時の風景を思い浮かべつつ、佇む二人。
相撲の地である両国らしく、相撲の始祖とされる野見宿禰(のみの・すくね)を祭った野見宿禰神社。境内には歴代の横綱のを刻んだ石碑もあります。

 

 




今回の歴史探訪 お・ま・と・め
~ 撮影を終えて ~
加来耕三先生
加来耕三先生
歴史を学ぶうえで大切なのは、そこから現代社会での生活に、如何に役立てるかということです。ビジネスにおいても、普段の生活においても、偉人と呼ばれる人たちの生き方は、とても参考になるはずです。この連載が、みなさんの生活がより豊かで実りあるものになるために、少しでもお手伝いができたのであれば嬉しく思います。
清水夏子さん
清水夏子さん
これまでのようにひとつの事柄の史跡ではなく、付近にあるいろいろな史跡に触れることができたのは新鮮でした。東京のなかでも特に下町には、素敵な史跡がいっぱいあります。連載は今回で終了ですけど、これからも史跡巡りは続けていこうと思います。どこかの史跡で、私を見かけたら是非、声をかけてくださいね。1年間ありがとうございました。