ほっとWebHOME > 泉麻人の東京深聞 > 矢切の渡しの向こう岸
  • 2018年(平成30年)07月11日(水曜日)
 JR小岩駅にやってきた。改札を出た先には、地元出身の名横綱・栃錦の銅像があって待ち合わせする人の姿が見受けられる。「じゃ、栃錦のお尻の前で」なんて待ち合わせのやりとりがされているのだろうか…。そんな光景を横目に南口の方へ出ると、ロータリーに次から次へとバスが入ってくる。都バスも見えるが、この駅前で圧倒的に多いのは紺白カラーの京成バスだ。
 集合時刻よりちょっと早く着いたので、ロータリー一角の「白鳥」といういかにも昭和の駅前喫茶らしい店で朝の珈琲を一杯、この店のちょうど真ん前の停留所から今回乗車する<小55>金町駅行のバスは発車する。
 小岩駅の南口からは、フラワーロードをはじめとして街路が放射状に延びているが、このバスは発車するとすぐ左手(南東側)のサンロードというアーケード商店街の道へ入っていく。ゆるやかに湾曲した狭い道に沿って、昔風の個人商店が並ぶ町並がいい。交差する柴又街道を左折すると、後は一直線に北上していく。
 JRとかなり離れた所にある京成小岩駅の前を過ぎ、まだ新開地の趣きがある北総鉄道の新柴又の駅前を通って、車窓がにぎやかな感じになってきた柴又帝釈天でバスを降りた。右手に帝釈天参道が口を開けているが、まずは左手の駅の方へ行ってみよう。およそ20年前、駅前広場に建立された、この寅さん(渥美清)像は実に姿が美しい。トレードマークのソフト帽の凹み、ポケットに手をいれて生じたズボンのシワやひるがえった背広の裾まで肌理(きめ)細かく表現されている。
 そうそう、何年か前から妹のさくら(倍賞千恵子)も寅像の傍らにお目見えました。もう1つ、観光案内などではあまり語られないが、「おりつ地蔵尊」という悲しい伝説に由来する子育て地蔵もひっそりと祀られている。

本日は、JR小岩駅からスタート!

  • 深聞1

    昔ながらの懐かしい個人商店が多く、風情のある街並み

  • 深聞2

    子育て地蔵として知られ、わが子が無事に成長することを願う人々が手を合わせているよう。

  • 深聞3

    柴又といえば、ここ。『見送るさくら』像

「男はつらいよ」の舞台~柴又の街を巡る!!
 さて、時刻は午前10時過ぎ。参道の商店も店開きする頃合いだ。久しぶりに草だんごを味わってやろうと、古くから知られる「とらや」に入った。寅さん映画「男はつらいよ」の初期作(1~4作)のロケに使われたというこの店、屋号「とら」はもともと「柴又屋」だったのを映画にあやかって改称したものというが、ガランとした空間に大机が配置された大衆食堂(墓地の石屋さんっぽくもある)ムードの店内は昔ながらの参道の店らしい。1皿6個の草だんごも午前10時台の腹具合にちょうど良かった。
 だんごやせんべい、川魚(うなぎ)の飲食店が並ぶ参道は、仏壇や欄間を扱う店に移り変わって、帝釈天題経寺の山門に行きあたる。ここはもう何度も訪れているが、境内に入っていつも確認するのが「おみくじ」の装置。おみくじ自体に大して興味はないのだが、この境内にある獅子舞人形がクジ紙をくわえて動き回るマシンは可愛らしい。
 寺の庭園(邃渓園)の脇をぬけて裏門を出ると、路地の奥に大正や昭和初期の日本屋敷を思わせる木造屋や蔵が見えてくる。いまは「山本亭」の表札が掲げられているが、浅草周辺でカメラ部品のメーカーを経営していた山本栄之助という人物の邸宅だった建物で、90年代初めから一般公開されている。なかへ入っていくと、書院造の主屋ばかりでなく、奥の方には洋風建築が見受けられ、いかにも昔のモダンな工場経営主の屋敷らしい。
 山本亭の敷地を通りぬけた向こうの江戸川堤際には、「寅さん記念館」(山田洋次ミュージアムも収容)が建っている。館内には、主舞台の食堂「くるまや」とその裏方のタコ社長(太宰久雄演じる)率いる町工場「朝日印刷所」のセットが組まれ、寅さんが旅した街を表示した日本地図、歴代マドンナ女優(浅丘ルリ子の出演数が群をぬいている)のポスターなどが飾られている。「男はつらいよ」―僕が中学生になった年(1969年)に始まった松竹映画(原点は前年にフジテレビで放送されたドラマ)だったが、当初主人公の寅さんがこういう1つの土地の名士、になるなんて予想した人はいなかっただろう。

映画「男はつらいよ」のロケ地で有名。

  • 創業明治20年。老舗「とらや」の草だんご

  • 寅さんワールドへ。

  • 「くるまや」のセットを再現。

都内で唯一残る渡し船「矢切の渡し」に乗船
 帝釈天裏の江戸川岸には、寅さんよりずっと古い時代からの名物がある。矢切の渡し(舟)だ。広く知れ渡ったのは細川たかしの曲がハヤった80年代以降だろうが、はじまりは江戸時代初期とされる。浅草の水上バスのような乗り場を想像される方も多いかと思われるが、これがうっかり見落としそうなほど地味なのだ。
 河川敷の草むらをスマホのグーグルマップで確認しつつ歩いていくと、岸辺に植わった夾竹桃(きょうちくとう)らしき樹のたもとにひっそりと<矢切の渡し>の看板が見えた。しかし、そのあたりに人気(ひとけ)もなければ舟も見えない。本日は薄曇りだが、東京は朝方までけっこう雨が降っていたから、もしや増水で運行中止…なんてことになっているのかもしれない、と若干不安な心もちで水際に近づいていくと、われわれの姿を見つけたのか、向こう岸から小さな舟(ボート)がこちらへ進んできた。
―乗られますか?
―僕ら3人だけでも?
―これ、矢切の渡しですよね?
 舟に乗っているのは木訥な感じの青年で、ちぐはぐなやりとりが続いた。
―杉浦さんですよね?
―ええ
 以前乗舟したとき、矢切の渡しは対岸の杉浦という家の親子2人でやっている、と伺った。そうだ、彼は15年くらい前に乗ったとき、高校生だった息子さんの方に違いない。
 川岸にただ板切れを並べたような素朴な桟橋から舟に乗りこむ。舟首に小さなモーターも付いているようだが、男は長い櫓を器用に操って舟を動かしていく。川面の先に常磐線の鉄橋や金町あたりの高層ビルも垣間見えるが、草深い川岸をぼんやり眺めているとなんだかラオスあたりでメコン川のクルーズをしているような錯覚をおぼえる。
―この辺、どんな魚がいるの?
―レンギョにソウギョ、ボラなんか夕方になると舟に飛びこんでくることがある…
―ところでオヤジさんは?
―向こう岸の売店で店番してますよ、舟漕ぎと店、交替でやってます
 当初、不機嫌そうに見えた男はぶっきら棒ながら案外よく喋る。矢切側の岸が近づいてきた頃「あ、キジが鳴いた」と小さな声で言った。
 矢切側の乗り場には4 、5人の御婦人グループがいて、ぬかるみの足もとを気にしながら僕らと入れ替わるように舟に乗っていった。
 すぐ先のヤブの傍らにまさにメコン川岸の露店みたいな売店があって、マスコットの甲斐犬とともに数人の男たちが溜まっていた。
深聞4

いよいよ、矢切の渡しに乗船!

  • 深聞7

    ひっそりと佇む看板。

  • 深聞4

    なんともレトロな渡し船。定員30名だそう。

  • 深聞6

    舟漕ぎと店の交替制となっているお店。

一面に広がる田園地帯~野菊のこみちをのらりくらり!!
 堤の階段を上ろうとしたとき、さっき船頭の青年が言ったとおり、一羽のキジがすーっと前方を横切って斜面の草むらのなかへ消えた。堤上の通りから向こうを見渡すと、こちら矢切の側は一面の田園地帯だ。先ほどキジを見掛けたと思ったら、田んぼの水溜まりにはシラサギや灰青色のアオサギがいる。畦道の所に出た<野菊のこみち>の掲示板をたよりに進んでいくと、国府台の方へと続く江戸川東岸の崖線の一角にある西蓮寺の境内に<野菊の墓文学碑>が置かれている。
 伊藤左千夫の小説「野菊の墓」は明治時代後期のこのあたりが舞台になっている(矢切の渡しがラストシーンに使われる)。丘の上から江戸川や利根川まで見渡す描写が碑に刻まれていたが、利根川はともかく、向かいの公園から江戸川の方の田園地帯を見渡す眺望はいまも素晴らしい。
 さて、この矢切の崖線地帯、西蓮寺脇の道をもう少し南下した所に美しい水道タンクがある。栗山浄水場の配水塔―昭和12年(1937年)に竣工したドーム型コンクリート建築の塔は、僕の生家から近い中野区江古田の野方配水塔とほぼ同じ姿をしているが、こちら栗山の塔はドーム屋根や側壁の一部がパステルトーンの薄いグリーンに塗装されているのがシャレている。
 どことなくSF映画のミステリアスな施設をも想像させる配水塔を金網越しにカメラに収め(いまも水道施設として機能しているので間近まで行くことはできない)、栗山の停留所から松戸駅行きの京成バスに乗る。市川と松戸を結ぶバスが走るこの道は松戸街道。北総鉄道の矢切駅ができたり、外環道のインターチェンジが整備されたりで、沿道にはファミレスやドライブイン型の店が目につくようになったが、常磐線の陸橋を越えるとバスは旧道じみた横道に入っていく。
 小山バス停で降りると、道端に「松戸宿」と記した堤灯がその先の角町の方に向かってぽつりぽつりと掲げられている。以前このバス遊覧で訪ねた行徳街道ほど古い町並が続いているわけではないけれど、所々に熟年散歩者好みの古建築が残されている。
 角町の渋い佇まいの道具屋のガラス戸に張り出された<ベンチャーズ来日公演>のポスター(昔のではなく、今夏の公演!)がなんともいい味を醸し出していた。
深聞4

一面に広がる田園地帯を見渡しながら歩く一行。

  • 深聞6

    矢印に沿って進むが、結構な距離がありそう。

  • 深聞4

    伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となった所。

  • 深聞7

    江戸川の近く、松戸市と石川市の境目のあたりに位置している。

イラスト2
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PROFILE
  • 泉プロフィール
  • 泉麻人(コラムニスト)

    1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。
    近著に『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)など。

  • なかむらるみプロフィール
  • なかむらるみ(イラストレーター)

    1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。
    著書に『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日記』(文藝春秋)がある。泉麻人さんとは『東京ふつうの喫茶店』(平凡社)などでダッグを組んだ。