ほっとWebHOME > 泉麻人の東京深聞 > 網を持って、いざ石神井へ
  • 2018年(平成30年)09月05日(水曜日)
 阿佐ヶ谷の駅前からは何本もの路線バスが出ている。都心の渋谷の方へ行くのもあるけれど、主に西北の郊外へ行くバスが多い。今回乗るのは北口から出る石神井公園駅行き(関東バス)。
 当日は8月のお盆期間、午前10時1分発のバスは空いているかと思ったら、発車前から列ができていて、ほぼ満席になった。この辺は南北をつなぐ鉄道がないので路線バスの黄金地帯なのだ。
 けやき並木の美しい中杉通りを北進したバスは早稲田通りを左折して、大鳥前という昔風のバス停の先で右手の旧早稲田通りの方へ入っていく。銀杏(イチョウ)稲荷の横を通過して、下井草の駅前へ。少し手前の下井草郵便局のバス停で降りて、駅前商店街をちょっと散策してみることにしよう。
 この通り、僕は少年時代からバスで何度も通りがかっているけれど、パッと見の風景は半世紀前の当時とあまり変わっていない。踏切のある狭いバス通りに背の低い商店が並ぶ西武線沿線の駅前通りらしい町並が保たれている。とはいえ、個々の店舗はそれなりに移り変わって、子供の頃のなじみのある店は見あたらない…と思ったら、踏切を渡って200メーターかそこら行った右手に「正保市場」というのが目にとまった。
 以前、トキワ荘通りのあたりでも見かけた、戦後調の集合マーケット。シャッターが閉ざされて、建物自体が朽ちているから、おそらく廃屋状態と思われる。この「正保(しょうほ)」というのは昔のこの辺の町名なのだ。小学生時代、この道を通るバスに乗って石神井公園へ遊びに行っていた頃は、すぐ先の停留所も確か、正保町だったはずだ。
 いまは井草一丁目になった停留所で、先へ行くバスを待っているとき、下井草の駅の方から挙動のあやしいオッサンが歩いてきた。車道と歩道の仕切りもない昔ながらの道を、右手のケータイ(ガラケー)をじっと眺めながら悠々と歩いてくる。しかも、もう片方の手の指先にはタバコをはさみ、つまり、歩きタバコ+ケータイ見…という状態。道が空いていたから良かったものを、しかしあのオッサン、いったいケータイでナニに熱中していた(株か、馬券か?)のだろう。まぁ、いい方に解釈すれば田舎町を思わせるのんびりした光景ともいえる。
 再乗車した石神井公園駅行きのバスは、新青梅街道の八成橋の所で一旦西方の環八通りに迂回して、さっきの旧早稲田通りの続きの道に入っていく。喜楽沼というバス停(沼が存在するわけではなく、ひと頃まであった釣り堀屋の名が由来)のある、この辺から旧早稲田通りはくねくねと湾曲した田舎道の風情が一段と強まってくる。
  • 深聞1

    関東バスに乗って、まずは下井草郵便局まで。

  • 深聞2

    当時と変わらず残っている「正保市場」。

  • 深聞3

    旧早稲田通りの湾曲したバス通り。

今も残る農家を見ながら、石神井公園ふるさと文化館へ向かう!!
 下石神井一丁目で降車して、少し歩いていくと、道が大きくカーブする所にバス会社の制服を着た男が立っている。すぐ脇に小さな待機用のボックスが置かれているが、彼は狭隘なカーブ地点でバスが対向車とスムーズにすれ違えるよう誘導する係なのだ。ひと頃の練馬や世田谷あたりにはこういうポイントがいくつかあった(さらに昔は車掌さんが誘導していた)ものだが、近頃は僕の知るかぎり下石神井のここくらいになってしまった。
 旧早稲田通りは石神井川に架かる豊島橋を渡って、禅定院の前で石神井公園の方からくる道と合流する。ここから左手が旧早稲田通りの進路。やがて井草通りと交差する、その少し手前に古めかしい農家が2軒見える。どちらも同じ姓のお宅だが、青いトタン張りを施した軒の広い納屋が庭の一角に建っている。ああいうタイプの納屋は、かつて広い軒下に練馬だいこんをぶら下げて干した…このあたり特有のスタイルだと聞いた。
 井草通りを右折した先にある「石神井公園ふるさと文化館」というのに立ち寄っていくことにしよう。いわゆる郷土資料館に値する施設で、石神井周辺の歴史資料が常設展示されている。練馬だいこん、アニメの聖地ともいえる東映大泉(当初、太秦との混同なのか、太泉映画と表記された)、そして、とりわけ虫好きの僕の興味を引いたのは、「加藤正世の蟬類博物館」に関するコーナーだった。
 加藤正世とは、大正から昭和の戦前に活躍した昆虫学者で、この石神井の三宝寺池の傍らに昆虫の研究所と蟬の博物館を開いていた。現在、昆虫標本の大方は東大に保管されているそうだが、昭和10年代の石神井の豊かな昆虫記録に目を奪われた。トラフトンボ、ベッコウトンボ、ヨツボシトンボ…なんてレアなトンボ(といっても、ピンとくる読者は少ないかもしれない)が石神井の池辺で採集できたとは…うらやましい。
  • 旧早稲田通りの進路。この通りを歩いていくと古めかしい農家を発見。

  • 石神井公園ふるさと文化館の中に。昆虫記録にすっかり夢中。

  • 練馬区の歴史、伝統文化、自然などに触れることができる。練馬だいこんがたくさん。

森の中に眠る癒し"ヒグラシ"の鳴き声を探し求めて
 館の裏手に移築保存された茅葺き農家・旧内田家住宅(もとは中村橋南方に存在した)を見物して、JA東京あおば石神井支店(石神井農協)の並びに見つけた店で昼食をとって、旧早稲田通りをもう少し奥へ進むと道場寺と三宝寺、由緒正しい古刹が並んでいる。前者は「豊島山」の山号を付けた豊島氏の菩提寺、後者は徳川家光が鷹狩りの休憩所に使ったとされる寺で、壮厳な山寺風情の道場寺に対して、三宝寺の方は派手目の堂や像が配置されている。とくに、境内西側の墓地に建立された観音像は新しいものだが、石神井の森を背景にしたその佇まいは観光地の大観音的なインパクトがある。
 そうもう一つ、道場寺と三宝寺の間の門前に<明治35年創業>の由緒を掲げた焼きだんご屋がある。焼きだんご屋(おそらく当初は露店だろう)が成り立つほど、明治の頃はこの辺の寺詣をする人がいたのだろう。
 三宝寺池の西裏には氷川神社があり、三宝寺池南岸にあたるこの寺社群の一帯が豊島氏の居館した石神井城の敷地なのだ。豊島氏の城…といってもその時代は鎌倉時代後期から室町時代にかけて、戦国時代の序盤ともいえる1477年、太田道灌率いる軍に攻め落とされた。その際、城主・豊島泰経と愛娘・照姫は三宝寺池に身を投じて命を絶った…という伝説(池畔にその話にちなんだ殿塚、姫塚の碑がある)も存在するが、これはどうもかなり物語化された話のようだ。
 クヌギの高木が続く、仄暗い道から三宝寺池の西側の緑地に入った。実は今回、カバンのなかに携帯式の捕虫網を仕込んできた。昔、渋谷の志賀昆虫店で買ったドイツ製の品物で、ステンレスの伸縮式の棹を伸ばして、先端にネットの部分をセットする。例年、夏のバス旅は雨に見舞われることが多かったが、本日はおおむね好天でセミの声もかまびすしい。
 まず、クヌギの樹液のポイントを探したが、浸み出した樹は見つからない。ただ、とあるクヌギの根もとにカブトムシのオスとメスの死骸を見つけた。この辺で交尾した後とも考えられるけれど、飼育していた子供がここに死骸を葬った…という可能性もある。
 崖地のマツやスギが目につく林の方からはカナカナカナ…としきりにヒグラシの声が聞こえてくる。都会でもこのくらい森が深いと暗がり好きのヒグラシは鳴く。太いスギの幹にとまったメスをまずネットに収め、続いてオスを捕まえた。採集したおぼえのある人ならわかると思うが、ヒグラシのオスとメスはオナカの様子が随分違う。シュッとスリムなメスに対して、鳴くオスの腹は小田原堤灯のようにふくらんでいる。空洞の腹の中で音を共鳴させて、あのカナカナカナの鳴き声を作り出すのだ。
深聞4

旧内山田家住宅の前にて。

  • 深聞7

    明治35年創業"焼きだんご"

  • 深聞8

    泉さん自前の捕虫網。

  • 深聞9

    "カブトムシ"オスとメスの死骸を発見。

石神井池にて、ギンヤンマ発見!!
童心に戻った気分で捕獲に挑戦!!
 ところで、この三宝寺池西側の森の北方、石神井松の風文化公園の一角に知る人ぞ知る施設がある。芝生の隅の小高い所、フェンスに囲まれた風向計などの計器こそ「練馬アメダス」なのだ。つまり、天気予報で「練馬では人の体温を上回る37度を記録しました…」なんていったときの練馬の気温は石神井のここで計測されたものなのである。
 捕虫網を持って、練馬アメダスをじっと眺めていたら、通りがかりの管理人と思しき男に不審な目で見られた。ささっとアメダスを後にして、池の畔でトンボを探す。大きなアオサギやカモの姿は見られるが、トンボはシオカラトンボやコシアキトンボ…といったよくいる小物くらいしか見あたらない。
 井草通りを渡って、石神井池の方へやってくると、水草の豊富な三宝寺池よりもむしろ人工的なこちらの池の方がトンボが目につく。目当てにしていたギンヤンマが1頭、2頭…確認できるが、このトンボは池の中央を悠々と飛んでいて、なかなか岸辺の方へやってきてくれない。そして、たまに"ファンサービス"みたいな感じでこっちへ向かってくるのだが、網がとどくぎりぎりくらいのところでクイッと向きを変えて遠ざかっていってしまう。実に頭がいいのだ。
 ギンヤンマを網に収めて、なかむら画伯やスタッフに自慢したいところだったが、埒が明かないのであきらめた。小さなイトトンボ(後で調べたら、アオモンイトトンボの未成熟型メスと思われる)を網に収めて、一応これで打ち止めということにした。
 池畔の別荘気分のお屋敷街をぬけて、石神井公園の駅前商店街に出てきた。狭い商店通りをL字に曲がってバスが通過していく景色は、石神井池でクチボソを掬ったり、ギンヤンマを追っかけてた頃と変わらないが、その先のスマートな駅前風景はまるで別の街にきたようだ。そう、いまやここから乗り換えなしで代官山や自由が丘へ行けてしまうのだ。
深聞4

「練馬アメダス」練馬の気温情報はここから。

  • 深聞6

    緑豊かな自然に囲まれながら、トンボを探す一行。

  • 深聞4

    見つけたギンヤンマを獲得したかった場所…。

  • 深聞7

    イトトンボ捕獲!! 本当に小さい。

イラスト2
「泉麻人絶対責任編集 東京深聞」が待望の書籍化!
「東京深聞」過去2年分(第1話~第24話)が東京新聞の書籍「大東京のらりくらりバス遊覧」として、全国書店にて販売中!
▼▼▼
PROFILE
  • 泉プロフィール
  • 泉麻人(コラムニスト)

    1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。
    近著に『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)など。

  • なかむらるみプロフィール
  • なかむらるみ(イラストレーター)

    1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。
    著書に『おじさん酒場』(亜紀書房)、『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日記』(文藝春秋)がある。『クレア』『翼の王国』『ビックコミックオリジナル』でも連載を持つ。泉麻人さんとは『東京ふつうの喫茶店』(平凡社)などでダッグを組んだ。