ほっとWebHOME > 泉麻人の東京深聞 > 団地遺産と平林寺のアトム工房
  • 2019年(平成31年)05月15日(水曜日)
 西武池袋線のひばりヶ丘駅で降りて南口へ出ると、水色の西武バスが並んだ向こうにパルコが見えて、いかにも池袋の西の郊外都市という感じがする。今回のバス旅の最終目的地は北方の志木界隈の予定だけれど、ひばりヶ丘まで来たら、やはり“団地”を眺めておきたい。ちなみに、各地によくあることだが、ここも駅は「ひばりヶ丘」の旧字表記、町名と団地は「ひばりが丘」と、ちょっと紛らわしい。
 南口から武蔵境駅行<境04>のバスに乗ると、数百メートル行ったさきから“谷戸商店街”と名の付いた狭隘な横道に入っていく。急カーブする地点に以前石神井で見たような誘導係が立つこの道、何路線ものバスが行き来する昔からの団地へのアプローチなのだ。東急沿線の郊外タウンというのは駅前からきちんと計画された街路が通っているものだが、こういう田舎道の区間がそのまんまだったりするあたりが西武沿線らしい。一応、西武沿線の町(東長崎近く)で生まれ育った者としては、なんとなく郷愁をおぼえる。
 中原小学校で降車して、北側から団地へ入っていくと、UR(都市再生機構)が建て替えした住棟の奥に旧棟が保存されている。53の番号を付けたこの棟は、俗に「スターハウス」と呼ばれるタイプのもので、上から見下ろした格好が星形というか、三ツ矢サイダーのマークみたいなデザインをしている。近頃増えている“団地マニア”に人気の様式と聞く。そして、この棟の前にはもう1つ、昭仁上皇が昭和の皇太子の時代に美智子妃が団地を視察に来られたときに入室された“74棟のベランダ”部分が設置されている。
 話が前後したけれど、ひばりが丘団地が誕生したのは皇太子殿下の御成婚と同じ1959年(昭和34年)のことで、御視察はその翌年のことだった。僕は当初、それまで山野や田畑だった一帯を開発した…とイメージしていたのだが、土地の大方は戦時中から中島飛行機の工場や試験場だったという。そういう意味でも、戦後の平和な時代を象徴する施設といえるだろう。
  • 深聞1

    西武バスに乗って、いざひばりヶ丘団地へ向かいます。

  • 深聞2

    現在は「ひばりが丘パークヒルズ管理サービス事務所」として利用されています。

  • 深聞3

    当時の皇太子ご夫妻と同様のポーズで、昭和ノスタルジーを感じています。

緑たくさんの自然に心癒され、歴史に触れる“平林寺”の魅力!!
帰路は駅まで歩いていくことにした。“ふれあいの道”と看板の出た団地門前の廃れたアーケード街から先のバス道を進んでいくと、広い駅前通りの裏手に昭和風佇まいの飲み屋横丁が続いている。そうか、この辺で代々団地のお父さんたちは一杯ひっかけて家路へ着いたのだろう。そんな一角に最近の“葬祭会館”を見掛けたが、これも“団地の歴史”かもしれない。
 次のバスは北口から出発する。最近整備された駅前のバスターミナルから志木駅南口行の西武バスに乗車。駅前商店街をぬけると、まもなく新座市(埼玉県)の領域に入る。別れ道、なんてバス停を過ぎて、栗原、火の見下、貝沼、と停留所の名もどことなく田舎めいてきた。が、あたりはもはや新開の住宅地で、貝沼のスーパー・いなげやを過ぎたあたりから、谷の向こうにようやく雑木林の丘が見えるようになってきた。こういう街と田園が混在した景色こそ「翔んで埼玉」の魅力といえるかもしれない。
 片山の町の先で関越道の架橋(中原橋)を渡ると、平林寺の森が見えてくる。ふだんはこの道(平林寺大門通り)を直進するところだが、本日は平林寺前の交差点のところに警備の警官が何人も出ていて、先へは進めない。そう、バスに乗るときに初めて知ったことなのだが、この日(4月17日)は、「半僧坊大祭」という年に一度のお祭りの開催日だったのだ。
 僕らはいつもより少し手前に移された平林寺停留所で降車したが、バスは右手の道を迂回していく。平林寺門前の道は歩行者天国になって、延々と露店が出ているけれど、そちらの見物は後回しにしてまずは平林寺の境内へ。
 平林寺―――そもそも南北朝時代の岩槻に創建された寺らしいが、松平家(信綱)の菩提寺としてこの地に移されたのは江戸の寛文3年(1663年)という。正門から入っていくと、山門とその奥の仏殿の立派な茅吹き屋根が目を引く。仏殿の裏手には、松平一族の墓石群がちょっとした集落のように存在している。
 そして、なんといっても堂宇や墓を取り囲む豊かな森が素晴らしい。季節もよくなってきたので、寺の参詣よりこちらの森の散策を目当てにしてきたのだ。
 深い木立ちの間に続く小径は所々が袋状の道筋になっていて、方向感覚を失う。昔ファミコンで熱中した「ゼルダの伝説」の森の迷路を思い出した。
 樹木で目につくのはカエデなどのモミジ系で新緑の季節も紅い葉のままのものが点々と見られる。それから、コナラやクヌギ、アカマツ…といった武蔵野の森らしい樹木。虫好きの僕は春の蝶を探したが、まだアゲハなんかの大物は見られず、キチョウとモンシロチョウがチラチラ舞っているだけだった。
  • 深聞4

    昭和感のある看板が当時の飲み屋街を思い出させてくれます。

  • 深聞5

    「平林寺境内林」は雑木林としては国内で唯一国の天然記念物に指定されました。

  • 深聞6

    平林寺の境内。“山門”と呼ばれ、建築物としても今も状態が良いと評判です。

 さて、半僧坊というのは鎌倉の建長寺などでも知られる臨済宗の守護神で“半僧半俗”の姿をしているという。この祭りでは、境内の半僧坊感応殿で般若経六百巻の転読が取り行われるようだが、門前の通りには稚児行列が出る。
 お昼過ぎに始まるというので、近くのうどん屋でランチ(うどんも春野菜の天ぷらもおいしかった)を取ってから、通りに出てみると、稚児行列の参加者は“稚児”というより地元・新座市内の大学に通う生徒たちで女子学生が多い。スピーカーから流れるアナウンスによると、平林寺の主でもある川越藩主・松平信綱を先頭に野火止用水の開削に貢献した有力者などの姿に仮装しているようなのだが、もとの人物をよく知らないので、仮装の良し悪しがわからない。
 稚児行列の後についてしばらく歩いて、平林寺の敷地が終わる新座市役所交差点を左折してズンズン行くと、野火止用水の小橋を渡った先に手塚(治虫)プロダクションの制作スタジオがある。鉄腕アトムの顔が外壁に掲げられているが、横道の入り口に案内板1つないので、注意していないと見落としてしまう。つまり、一般公開のミュージアムなどは設けられていないわけだが、知人が勤務しているので、ちょっと見学させてもらうことになった。
  • 深聞7

    取材時は奇遇にも「半僧坊大祭」という祭事。たくさんの出店や人で賑わっています。

  • 深聞8

    平林寺とともに48年の歴史がある「手のべうどん たけやま」。

  • 深聞9

    閑静な住宅街に現れる“手塚プロダクション”。思わず通り過ぎてしまったほど。

昭和の伝説的な漫画家・手塚治虫の
“ものづくり”にこだわる仕事部屋とは?
 一般見学は受け付けていないものの、玄関口にはタイプの違うアトムのフィギュアが何体か飾られている。手塚プロのこのスタジオができたのは88年の4月、手塚治虫が亡くなったのは89年の2月というから、本当に晩年数か月を過ごした仕事場なのだ。その最後の仕事部屋を見せてもらったが、机の上に描きかけのスケッチがそのまま置かれ、筆記用具が散らばっている。原稿手書き派の僕が長らく愛用していた三菱鉛筆ユニの2Bが何本も目につくのがなんだかうれしい。
 手塚氏の愛読書(古いSF本や印刷史の本も見られる)が並んだ本棚の一角にオサムシの標本箱を見つけた。ペンネームの由来にもなった黒い甲虫(こうちゅう)。さっきの平林寺の森なんかにいかにもいそうな虫だが、これは手塚先生が採集したものではなく、弟子の昆虫好きのアニメーターが付近で捕まえたものらしい。
 ここに仕事場を置いたのは、東久留米にあった自宅から近いという理由らしいが、町外れの外側に行くというのは平林寺周辺の広大な自然環境に魅かれたに違いない。しかし、おもえば手塚先生、トキワ荘の椎名町あたりから富士見台、東久留米、新座…と、西武池袋線をほぼ西の郊外へ移動してきたマンガ家ということになる。
 もちろん、資料室には僕が幼少の頃にアトムの連載を読んだ月刊誌「少年」をはじめ、貴重なアーカイブが数々保管されているわけだが、そっちに目を向けたら時間がいくらあっても足りない。そろそろバスに戻ろう。
  • 深聞10

    手塚治虫の仕事部屋。全て当時のまま残されています。

  • 深聞11

    ペンネームの元となったオサムシたち。

  • 深聞12

    エントランス付近ではアトムくんがお出迎え。細部まで凝っています。

歴史ある建築物に触れる志木市の散歩道
 市役所の先の望芙台住宅から志木駅南口行のバスに再乗車、平林寺大門通りを一直線に北上していくとそのどんづまりが志木駅の南口なのだ。東武東上線の駅として知られる志木、実は元の町はもう少し北方の新河岸川(柳瀬川との合流地)の川端にできあがった。
 東上線を渡った向こうの北口、ではなくなぜか東口と付いた、北口っぽい東口から「宗岡回り(循環)」と掲げた国際興業バスに乗って志木街道(本町通り)を浦和方面へ進むと、富士道入口のバス停のあたりから古い町家がぽつぽつと車窓から見えてくる。次の市場坂上で降りると、傍らにこの辺の地主・西川家の年季の入った潜り門が置かれている(これは近隣から移築保存したものらしい)。
 この川際が志木の元町だったことは、橋の向こうに市役所があるのも1つの証し。村の時代から代々役場が置かれた地であり、源は江戸時代に始まった新河岸川舟運。浦和と東村山あたりを結ぶ志木街道(平林寺の前の道もその筋の1つ)とここで交差するので、引又河岸と呼ばれる河岸場が置かれ、店が並ぶようになった。平林寺の脇を流れていた野火止用水も、ひと昔前までは志木街道の真ん中をセンターラインのように流れて新河岸川に注ぎこんでいたという。
 川越の蔵造りの町ほどの規模がないのは残念だが、ぽつぽつと残った古い家に目力を集中させて、河岸場が栄えていた頃の街並を想像するのもおもしろい。
  • 深聞10

    「旧西川家潜り門」。現在は栄橋近くの交差点に移築・復元されています。

  • 深聞11

    志木市村山快哉堂。明治10年に建築された木造二階建て土蔵造りの店蔵。

  • 深聞12

    明治から昭和初期の老舗薬局の店構えと建物構成が残されており、当時の薬局の状況を知る上で貴重な存在です。

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PROFILE
  • 泉プロフィール
  • 泉麻人(コラムニスト)

    1956年東京生まれ。慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストとして活動。東京に関する著作を多く著わす。
    近著に『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)、『大東京23区散歩』(講談社)、『東京 いつもの喫茶店』(平凡社)など。

  • なかむらるみプロフィール
  • なかむらるみ(イラストレーター)

    1980年東京都新宿区生まれ。武蔵野美術大学デザイン情報学科卒。
    著書に『おじさん酒場』(亜紀書房)、『おじさん図鑑』(小学館)、『おじさん追跡日記』(文藝春秋)がある。『クレア』『翼の王国』『ビックコミックオリジナル』でも連載を持つ。泉麻人さんとは『東京ふつうの喫茶店』(平凡社)などでダッグを組んだ。

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